約 4,593,482 件
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/2569.html
249 :嘘と真実 13話 ◆Uw02HM2doE:2012/11/29(木) 00 50 24 ID g5jQjHWM 13話 あれから、真実が俺達を監禁したあの事件から一年が経ち、俺達は高校三年生になった。 世間はクリスマスが近付いているせいか、浮かれた気分になっている人が多いが、俺達受験生は例外だ。 今日も日課のように放課後の教室で参考書と睨めっこをしている。 「司くぅーん、まだぁ?早くラーメン食べに行きましょ」 「…………」 「無視なんて……酷いっ!こうなったら嫁に電話してやるわっ!」 「うるせぇ!!黙って待てねぇのかこのエロゲ野郎が!」 目の前で俺をおちょくってくる晃と口喧嘩をしながら、俺は目の前の参考書と格闘する。 「……くそ、分からん」 「ああ、それx=6だよ」 「適当なこと言ってんじゃ…………合ってる」 呆然とする俺に晃はピースをしてくる。悔しいがコイツはかなり頭が良い。 俺が今目指している大学も、推薦で合格してしまった強者なのだ。 なので一般受験で同じ大学を目指す俺に晃が勉強を教えてくれる、もといおちょくってくれている毎日である。 まあ何だかんだ言って丁寧に教えてくれる晃には結構感謝しているのだが。 「あ、晃君っ!」 「おっ、大内さん」 夕日に染まるポニーテールを揺らしながら大内さんが教室に入って来る。 「も、もしよかったら……そ、その一緒に帰らない!?」 若干裏声になりながらも大内さんは晃に話し掛ける。 以前と比べるとだいぶマシになったようだ。一年くらい前は『晃君に会わせる顔がない!』とか言ってずっと遠くから見つめていただけだった。 それが最近、やっとこうしてまともに話し掛けられるようになったのだから。 「別に良いけど?あ、司も――」 「俺はいいや。まだ勉強したいからさ。二人で帰れよ」 晃に被せて俺はやんわりと断りを入れる。 大内さんの恋路を邪魔するとどうなるか、何となく想像出来てしまうから。 それに俺も待たなければならない人がいる。 「そっか。じゃあラーメンはまた明日だな。行こうか、大内さん」 「う、うん!じゃ、じゃあね、藤塚君!」 晃は少し残念そうにしながらも大内と一緒に教室を出て行った。 夕日が差し込む教室に取り残され、ほっと一息ついた。 「……大内さん、か」 大内さんは学校に復帰していた。 真実を刺したあの出来事は、普通ならば裁判沙汰になるような事件だったが、裁判どころかニュースにさえならなかった。 理由は分からないが、そのおかげで大内さんは年明けには学校に復帰した。 ……これは俺の推測でしかないが、真実が大事にしないよう両親に掛け合ったのではないだろうか。 でなければ刺された側が何もしないなんて、考えられない気がする。 とにかく、大内さんは無事学校に戻ってきた。 勿論、戻ってきた直後、俺たちはかなり謝られた。雪の自転車のことも含めて。 雪は最初は驚いていたがすぐに大内さんを許した。別に気にしていない、と。 「晃もよくやるよな……」 夕日を見ながら呟く。 何の風の吹き回しか、晃は大内さんに積極的に話し掛けるようになった。 罪の意識からか、復帰した後も遠目で晃を見ることしか出来なかった大内さんと、今日みたいに帰っているのも晃の意志だ。 どうやら大内さんの好意を無視したことで、彼女を狂気に走らせてしまった。 そう晃は考えているらしく『ちゃんと向き合わないとな』なんて言っていた。 晃の考えすぎな気はするが、正直外見だけならお似合いだと思う。 ま、どうするかは二人次第なのだろうが。 250 :嘘と真実 13話 ◆Uw02HM2doE:2012/11/29(木) 00 51 11 ID g5jQjHWM 「……そろそろか」 時計を見た後、俺は帰りの支度をして教室を出る。まだ時刻は夕方なのに、辺りは段々と薄暗くなっている。 マフラーをしながら校門に向かうと既に人影がいた。 「それでですね……あ、お兄ちゃん!」 「おう、お待たせ。弥生もいたのか」 「弥生"も"ってなによ!酷いですよね、先輩!」 「ふふっ、そうね」 頬を膨らまて抗議する弥生に、雪はそっと微笑む。 「さ、帰るか。じゃあな弥生!」 「何よ!弥生だって先輩と一緒に帰るもん!」 「今日の買い物当番お前だろ。残念ながらスーパーは逆方向だ!」 「こ、この人で無し!!」 ぎゃあぎゃあと二人で大騒ぎをするのもいつもの光景だった。 ……あの事件の後、結局俺と弥生は普通の兄妹に戻った。あの時の弥生の気持ちを、俺はまだ改めて聞けずにいる。 しかし、弥生は何かが吹っ切れたように、以前と変わらず俺に接して来る。 以前よりも依存することが少なくなり、キスを求めてくることもなくなった。 もしかしたら、あの出来事が弥生を成長させたのかもしれない。 「司、一緒に行ってあげればいいじゃない」 「あ、別に気にしないでください先輩!お兄ちゃん、先輩に変なことしないでよね!」 「ばっ!?お前っ!」 「じゃ、先輩また明日!」 弥生は言いたいことだけ言うと全速力で俺達から離れていった。家に帰ったら覚えておけよ、我が妹。 「……じゃ、帰るか」 「うん」 自然と雪と手を繋いで通学路を歩く。雪の手から伝わる体温が心地好い。 結局、俺達は付き合うことにした。 あの事件からお互いの大切さを再認識したのだろうか、病院で目を覚ました雪に向かってすぐに俺は告白した。 また声が裏返ってしまいかなりからかわれたが。色々喧嘩もするが、なかなか上手くやっている。 「どう?勉強は進んだ?」 「まあな。相変わらず晃は五月蝿いけど。久しぶりの部活はどうだった?」 「うーん……やっぱり身体が鈍っちゃうね。でも弥生ちゃんは頼もしかったよ。キャプテンの貫禄がついてきたのかな」 たわいもない話をしながら二人、夕暮れの通学路を歩いていく。 雪も晃と同じ大学に推薦が決まっており、俺だけが一般受験で頑張っている。 「もうすぐ今年も終わりね。どう、受験生さん?」 「同じ大学に行けないと別れるカップルが多いとか聞くし、三人で馬鹿やるためにも頑張らないと――」 冗談混じりで言った瞬間、雪にぎゅっと抱きしめられた。甘い香りが俺を包む。 雪はちょっと不機嫌な顔をして俺を見上げた。 「……別れないよ」 「ああ、ただの冗談――」 「絶対に、離さないからね」 雪は更に強く俺を抱きしめた。 付き合ってから改めて知った、雪の愛情の深さ。そして……執着。 別に迷惑でないし、むしろ嬉しいが、度々こういうことが起きる。 こういう時は言葉じゃなくて態度で示さないといけない。 ……言っておくが、別によこしまな気持ちがあるとかじゃない。断じてない。 「絶対に――」 俺は雪の唇にそっとキスをする。柔らかい感触と共に自分の頬が暑くなるのを感じる。 雪の顔を見ると真っ赤だった。目は潤んでいて呆然としている。 「好きだよ、ゆ――」 「ば、ばばばばばはかぁぁあ!?」 「ぐはぁ!?」 思いっ切りビンタされて俺は道端に倒れる。雪は肩で息をしながら潤んだ目でこちらを見ていた。 「こ、ここここんな場所でなにしてんのよ!?へ、変態っ!!」 「あ、あのなぁ……」 起き上がって雪に近付くと、まるで獣でも見るような目付きをされた。 付き合ってもうすぐ一年。愛情深くて嫉妬深くて、それでいてかなり繊細……というかキス一つでここまで顔を真っ赤にする。 そんな彼女、中条雪と俺は一緒に歩いている。 ……そしてそこには、全ての元凶であり俺と雪を結び付けた、辻本真実の姿はなかった。 251 :嘘と真実 13話 ◆Uw02HM2doE:2012/11/29(木) 00 51 44 ID g5jQjHWM 雪を自宅まで送った後、何となく近くの河原まで来ていた。 たまに黄昏れたくなる、そんなお年頃なのかもしれない。 黄昏れというには、周囲はもう暗くなっているのはご愛敬ということで許して頂きたい。 「…………」 真実はあの事件の後、すぐにこの街からいなくなった。 弥生が呼んでくれた晃の協力もありあの日、真実も雪も奇跡的に一命を取り留めた。 手術室に入って行く真実を俺は祈る思いで見つめ、それが俺が見た最後の真実の姿となった。 真実が助かったことはご両親から聞かされたが俺達が会いたいというと、はっきりと断られた。 『もう真実には関わらないでほしい。賠償ならいくらでもする』と、ただそれだけ言われた。 悔しかった。そういう目でしか俺達は見られなかったから。 結局そのまま真実には会えず、いつの間にか彼女は家族と一緒にこの街からいなくなっていた。 電話も、メールも変えられていて全く連絡が取れないまま、もうすぐ一年が過ぎようとしている。 「……何してんのかな、真実」 違う学校でもまた、委員長をやっているのだろうか。 また誰かにお節介をして、誰かを叱ったりしているのだろうか。 ……また一人で抱え込んで、悩んで、苦しんでいるのだろうか。 結局俺は真実を救えなかった。必死に呼び掛けたが、彼女には届かなかった。 だから今、真実はこの街にいない。 「…………?」 ふと対岸を見ると同じように黄昏れている人がいた。 顔はよく見えないが服装からして、どうやら女子のようだ。ぼーっと見ていると女の子は河辺に近付いて―― 「………………えっ」 「久しぶり……司君」 ゆっくりと微笑んだ。 決して大きな声ではなかったが、俺にははっきりと分かった。 あの一ヶ月間の掛け替えのない思い出が溢れ出てくる。いつの間にか俺は川のギリギリまで駆け寄っていた。 確かめたかった。会いたいと思う俺が生み出した幻なのか、それとも―― 「ま、真実なのか……」 「……他に誰がいるのよ」 初めて出会った時と同じように辻本真実はクスッと笑う。 あの時と違うのは、俺が知らないグレーの制服を着ているという点だった。 やっと会えたという喜びと同時に、やはり真実はもうこの街にはいないのだと俺は改めて気付かされた。 「…………心配したぞ。連絡も寄越さず突然消えやがって。連絡先も変えるしさ」 「親に変えられたのよ。"全て忘れて、新しくやり直そう"って……」 真実は何処かさみしげな笑みを浮かべる。 "全て忘れて"という言葉が俺の中で引っ掛かった。真実は、真実の家族は一年前の出来事をないことにしようとしているのだろうか。 「全てって……でも、また真実は帰って来てくれたじゃないか」 「帰って来たわけじゃないわ。少し用があって、たまたま通り掛かっただけよ……じゃあね」 突然、真実は踵を返して河辺から離れていく。まるで俺を拒絶するかのように。 252 :嘘と真実 13話 ◆Uw02HM2doE:2012/11/29(木) 00 52 21 ID g5jQjHWM 「真実っ!!」 今を逃がしたら二度と会えない気がして俺は無意識に叫んでいた。 このまま終わるなんて、あまりにも悲しすぎる。 「…………何?」 真実は振り返らないまま、俺の言葉を聞いていた。言うなら今しかない。 あの時、一年前に届かなかった想いを伝えなければならない。 「行くなっ!!」 「……っ」 「真実が居てくれて本当に楽しかった!たった一ヶ月だったけど、俺にとっては掛け替えのない時間だった!」 「……私は復讐する為に、司君に近付いたのよ」 「だから何だ!きっかけなんてどうでもいい!俺は、俺達はまた真実に居てほしい!」 「……皆をたくさん傷付けたわ」 「謝って許して貰おう!一人が嫌なら俺も付き添う!だから……行くなっ!!」 俺の叫びが真っ暗な河辺に響く。真実は身体を震わしながら俺を見ていた。 「な、何で……何でそこまでしてくれるのよ!?私は、私は司君の妹を殺そうとしてたのよ!」 そして真実は今までの感情を爆発させるように叫ぶ。 やはり今でも真実は、あの時のことを後悔しているようだった。 「……真実のおかげで大切なものに気が付けた。色んなことが分かった。真実が居なきゃ、分からなかったことばっかだ」 「……嘘」 「嘘じゃない。真実には本当に感謝してる。だから、今度は真実の力になりたいんだ」 俺は真実に向かって手を差し出す。 一年前はちゃんと言えなかった真実への気持ちを、今度は言うことが出来た。 俯いていて真実の表情はよく分からない。そのまましばらく、川の流れる音だけがこの空間を支配していた。 やがて、真実はゆっくりと顔を上げて俺を見た。 「…………私も、やり直したい」 「真実……」 真実は消えてしまいそうな程小さな声で、それでも俺の眼を見て話しつづける。 「もう一度……もう一度やり直して、今度はちゃんと……皆に向き合いたい……!」 「じゃあ――」 「ありがとう。司君は、いつも私に勇気をくれるわ。……もう、決めたから」 真実は俺の言葉を遮って力強く話す。その言葉には、既に迷いはないように思えた。 「真実……?」 「私、やり直したい。今すぐは無理だけど、必ず帰ってくる。だから…………待っていてくれる?」 「……ああ、待ってる。皆で、真実のこと必ず待ってるから!」 「うん……」 川越しに俺達は約束をする。いつか必ずまた笑い合う為に。 この川は今の俺達の距離だ。簡単には越えられない。 それでもお互いを見失わなければ、俺達はまた出会えるはずだ。だって俺達にはお互いが見えているのだから。 「……司君、もし私達が普通に出会えてたら――」 真実はそこで口を閉じる。何かを言いかけたようだったが、少し考えた後,笑顔を作った。 「やっぱり何でもない!……中条さんとお幸せに!」 「お、おいっ!?」 「あはは、顔真っ赤よ?」 「ぐっ……」 この暗闇でも分かるとは相当真っ赤なのだろうか。考えると余計に恥ずかしいのであまり気にしないことにする。 「……じゃあ、私行くね」 「おう、必ず戻ってこい!」 「うん。行ってきます!」 真実は手を振った後、そのまま振り返らず、河辺から去って行った。 真っ暗な河辺に俺が一人残される。それでも俺の心はとても晴れやかだった。 「真実……」 結局、何故この街に来たのかは分からなかったが、おかげでもう一度真実に会えた。 そして大切な仲間を失わずに済んだ。どれくらい掛かるのかは分からない。 でも俺達は約束をした。だから俺は信じて待とう。必ず、今度は皆で笑い合える日を信じて―― 何が真実で、何が嘘なのか。決めるのは結局、自分自身だ。 たとえ嘘から始まった出会いだとしても、その関係や気持ちは真実だと、俺は思う。 嘘と真実が混ざりあったあの一ヶ月は、今までもそしてこれからも、俺自身にとって掛け替えのない思い出になるに違いないから。 253 :嘘と真実 13話 ◆Uw02HM2doE:2012/11/29(木) 00 53 25 ID g5jQjHWM ――春。桜が舞い散る並木道を俺達は歩いていた。全員がスーツ姿に身を包んでいる。 同じ方向へ歩く人達も、俺達と同じように真新しいスーツに緊張気味の面持ちを浮かべていた。 「……結局大学も皆同じだもんな」 「本当は落ちたらどうしようとか思ってた癖に。司君もツンデレですな」 「本当にね。あたし達の方が緊張したよ」 高校の時と同じように雪と晃にからかわれる。 かなり際どかったが、何とかこの二人と同じ大学に合格することが出来、晴れて大学生になった。 真新しいスーツに身を包み、俺達はこれから入学式を迎えるのだった。 俺達の大学は桜山市の市内にあり通学も高校の時とあまり変わらないが、結構知名度があり倍率は中々に高かったのだ。 「まあ入っちゃえばこっちのもんだからさ。な、大内さん!」 「う、うん!ふ、藤塚君の言う通りだよ!"棚からぼたもち"って言うしね!?」 顔を真っ赤にさせながら晃の隣を歩いていた大内が必死に答える。 彼女も俺と同じ一般入試で合格した仲間だ。 そして一緒に皆で勉強した甲斐あってか、何とか晃以外とも少し会話出来るようになった。まあ、よく吃るが。 「なんか使い方違う気もするけど……とにかく今日から大学生なんだな」 「おっ、何だか感慨深げじゃないか」 「どうかした、司?」 雪が不安げにギュッと俺の手を握ってくる。 ……自分の彼女ながらその仕草は可愛すぎだろ。 「……いや、何でもない」 俺は満開の桜を眺めながら、ここに居ないもう一人の大切な仲間に想いを馳せる。 彼女も同じ空を見ているのだろうか。そんなことを考えながら。 「そういえば今日の新入生代表挨拶、入試の成績優秀者がやるっていってたな」 「もしかして司……はないとして、大内さん?かなり自己採点良かったみたいだし」 雪がさりげなく俺を馬鹿にしてから大内さんに話し掛ける。 確かに俺はかなりボーダーラインで滑り込んだ感じはしたから、成績優秀者なんかになるわけはない。 「そ、そういう話はなかったので……」 「じゃあ誰だろうな。要するに一番出来た奴ってことだろ」 「さあ?……そろそろ着くな」 桜並木を抜けると目の前に大きな建物がずらっと並んでいた。 俺達は少し感動しながらも案内され、人の波に流されて行く。 会場である大型体育館にはスーツ姿の新入生がぎっしり用意された椅子に座っていて、思い思いに入学式が始まるのを待っていた。 しばらくすると入学式が始まり、同時に学長の長い話が始まる。 いよいよ俺達の大学生活がスタートする瞬間だった。そして―― 『続きまして、新入生代表の挨拶』 「ついに来たな。司君よりも頭の良い天才が」 「うるせっ」 晃と小声で話しながら誰も居ない壇上をぼーっと眺める。 一体どんながり勉が出て来るのか。せめて眠くなるような話はして欲しくないなんて考えていた俺の耳に入って来たのは―― 『新入生代表、辻本真実』 「………………………へっ?」 聞き覚えのある名前だった。 254 :嘘と真実 13話 ◆Uw02HM2doE:2012/11/29(木) 00 54 05 ID g5jQjHWM 辻本真実と呼ばれた女の子は以前より伸びて腰ほどにもなった黒髪を揺らしながら壇上に立つ。 どうみても俺達が知っている辻本真実だった。 呆然としている俺を知ってか知らずか、真実はゆっくりとマイクスタンドに近付き、挨拶を始める。 『新入生の挨拶。新入生代表、辻本真実――』 「おいおい……」 晃も相当驚いているようだった。同じように大内さんも眼を見開いている。 「…………司は絶対に渡さないから」 「ゆ、雪……?」 雪に至ってはぶつぶつ言いながら俺の手をギュッと握り締めている。 そんな俺達の状況などお構いなしに、真実はすらすらと挨拶を続ける。 そして最後に確かに俺達の方を見ながら―― 『……冬に学校見学に来てからこの大学に入りたいと心に決めておりました。これからは心機一転、人生をやり直すつもりで大学生活を謳歌したいです』 笑顔でそう言った。挨拶が終わり真実は壇上から降りる。 「……あいつ」 そんな真実を見ながら、俺は思わず笑い出しそうになるのを必死に抑える。 ――何が今すぐは無理、だ。全然すぐじゃないか。 あの時河辺を通り掛かったのも、この大学の学校見学のついでだったに違いない。 真実は親も、俺たちすら出し抜いて、最初からこの街に戻る気だったんじゃないだろうか。 「……ったく、とんだ嘘つきだよ、アイツは」 「……さてと、これから修羅場かもな、司君」 「はい?」 「司は……あたしの恋人なんだから……!」 「あはは……」 ……やっぱり真実にあんなこと言わなきゃ良かったなんて思いながらも、何故か俺は嬉しかった。 ――春が始まる。 今まで違う、新しい春が。 でも全て上手く行く気がする。 だって俺達は悲しみを乗り越えて、やっと揃うことが出来たのだから。 きっと今より素敵な未来が待っている。そんな気がするんだ。 ――嘘と真実―― 完
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/295.html
150 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 21 26 22 ID bV45Habb ぴちゃりと―― 小さな水音がするのは、彼女の行儀が悪いからだ。誰も食べ方など教えなかったし、教えたところで 彼女は覚えようとしないだろうし――覚えなかったとしても、誰もこまりはしなかったから。地下室に いるのは彼女と私だけで、それ以外に人の目はなく、誰にはばかることもなかった。 思う存分に、 思うがままに、 彼女は食事を楽しんでいる。 「――――――」 私はそれを見ている。美味しいかい、とも、慌てなくてもいいよ、とすらいわない。 ただ、見ている。 見ているだけだ。決して手は出さない。地下室に存在するモノは椅子が一つきりで、その椅子を私は専有して いる。自然、彼女は剥き出しになったコンクリートの上に座ることになるが、それを苦と思う様子はない。 そもそも―― 彼女が何かを思うのか、私はよくわからなかった。ものを食べているとき、嬉しそうにしているから、感情は あるのだろうが――それが本当に『嬉しい』という感情なのかも、私にはわからない。 誰も彼女に教えなかったから。 生まれたばかりの赤子、どころではない。生まれるまえの胎児にすら等しいのだ。 「――――――」 私は無言のままに部屋の中を一瞥する。部屋、というのもおこがましい。箱、と呼称するのが 正しいであろう空間。地下の深く深く深く深くに封じられた地下室。壁を突き破ったところで、 その先にはどこまでも続く土の重圧があるだけだ。外へと繋がる戸と、換気のための目に見えな 穴。外部と繋がるのはそれくらいのものだ。 外部。 その言葉にどれほどの意味があるのだろう? 彼女は、外を認識していない。彼女にとって、外 など存在しないのではないか。私はただ、『どこからともなく現れて食べ物をくれる人』としか思 われていないのではないか。 そう、思った。 「――――――」 視線を部屋から中央に座る少女へと移す。水溜まりのなかに膝を曲げて座りこみ、口も身体 も汚しながら一心不乱に食事を続ける少女。小さな少女だ。抱きあげれば壊れてしまいそうな、 生きるために必要最低限な筋肉すらない壊れかけの少女。かつては白かったウェディングドレ スは、今では真っ黒に染まっている。 ただの黒ではない。汚れて、澱んだ、黒ずんだ色。かつては紅かったものが、時間とともに 黒くなって――ウェディングドレスは、黒と白に染まっている。 水溜り。 色は紅で、存在は血だ。食べ物から滴り落ちる血を浴びて、食べながら、少女は笑っている。 微笑んでいる。 嬉しそうに。 幸せそうに。 自身と同じ体構造のモノを食べながら――微笑んでいる。 151 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 21 34 40 ID bV45Habb ぴちゃり、 ぴちゃりと――だらしなく食べるたびに、口から毀れた血と肉が血だまりの中で跳びはね、彼女の ウェディングドレスを染めていく。自身が食べた記録を積み重ねるように。 私は、 私はそれを見ている。何も知らない少女の、何も知らずに食人行為を重ねる少女を、ただ見ている。 見つめて、 観察し、 待ち、 焦がれている。 「――――――――」 そんな私の視線に気づく様子はない。彼女は微笑んでいるが、その頬笑みは私へと向けられた ものではない。誰にも向けられることのない、ただの純粋な感情の発露。だからこそ――それを 私は尊いと思うし、見つめているのだ。 微笑んでいる。 自分の肩から生えた腕と、食べているものが同じカタチであることにも疑問を思わず。皮をち ぎり指を食み腕を噛む。切りとられたそれを、嬉しそうに食べている。 彼女は、 純粋だった。 何も余計なものを与えられていない、余分なものを与えられていない、人間として究極すぎるほど に先鋭化された存在。道具を遣うこともできず、言葉を話すこともできず、そんな存在さえ知らない。 与えられたものを甘受し、ただただ満たされて育ってゆく。 そこに不幸はない――幸福はないから。 そこに絶望はない――希望はないから。 地下の深くの、閉ざされた世界。 まるで楽園だ。神の作りあげた世界のようだ。けれどここには禁断の木の実もなければ 蛇もいない。楽園はいつまでも閉ざされていて、外に出ることはない。少女は知恵をつけ ることもなく、永遠は永遠として続いている。 それを、 私は、 「――――――――」 少女が腕を食べ終わる。切断面から洩れた血が地面に水たまりを作り、その上にはこぼした 肉片がいくつも浮かんでいる。もったいないと、純粋にそう考えたのだろう。少女は尻を突き あげるようにして四つん這いになり、ぴちゃぴちゃと、血だまりを舐めはじめる。 手でかきよせるようにして肉をあつめ、舌ですくうように食べる。真っ赤な唇。真っ赤な舌。 紅く紅く、血よりも紅い彼女の臓器は、何よりもの生きている証左だ。 ぴちゃぴちゃと、 ぴちゃぴちゃと――血を舐める音だけが、静かな箱に響き渡る。 152 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 21 42 57 ID bV45Habb 美味しいとも、 不味いとも、 彼女は言わない。言うことができない。その口はただ、肉を食むためだけにある。その体 は育つためにある。 足りない。 まだ、足りない。 何が? 時間が。 あるいは、全てが。 足りていない。 「――――――」 だから私は見る。ただ、見つめている。閉ざされた世界での少女の成長を。姿を。 四つん這いになり血を舐めるその姿を。猫のようだ。失われた動物のように、彼女は 音を立てて血を舐める。跳ねた血が、文様のように彼女の肌に痕をつける。生まれて から一度として陽の光を浴びたことのない肌は白く、一度として切ったことのない髪 もまた白い。すべては白かった。それが少しずつ、血と時間で紅く黒く染まっている。 育っていく。 汚れて、穢れて。 彼女は、育ってゆく。 「――――――――」 私は何も言わなかった。彼女が満足がいくまで舐め終わるのを待ち、更には満足げに眠る まで動きすらしなかった。椅子に座り、彼女の生態を観察する。彼女にとっては――私は此処 にある椅子と同じようなモノに過ぎない。視線をやることもなく、丸くなって眠りについた。 いつものように。 そして私はいつものように椅子を立ち、眠る彼女の元に歩み寄る。濡れたタオルで彼女の汚 れた肌と、血の跡がつく髪を丁寧にぬぐい取る。時間をかけて、優しく。起こさないように、 傷をつけることのないように。最後に彼女の下着を脱がせ、確認し、新しいのを履かせて傍を 離れる。 寝た子を起こす趣味はなく、 私は何の声をかけることもなく、閉ざされた箱を後にした。 ……ぱたん。 153 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 21 48 30 ID bV45Habb ――箱。 それは彼女の部屋だけではなく、この場所全てがそうだと言えるのだろう。 箱。 閉ざされて、開かれることのない箱。 そもそもが蓋の存在しない箱。蓋の開け方は失われてしまった。強引に外に出たところ でそこは土の壁があるだけであり――数百メートルと続く壁を越えて『上』へと出たとこ ろで、そこはもはや人の住む世界ではないのだろう。 かつてから変わっていなければ、だが。 だがもはや確かめる方法はない。『上』で変化が起き、誰かが来てくれるのならばわか るかもしれないが――それはただの夢物語である。 世界は閉ざされている。 箱は閉じ切っている。 ずっと昔から、そうであったように。 ――だからここは楽園だ。楽園の内側だけで循環する、外側を必要としない閉じた 世界。 彼女と、 私と、 二人しかいない――楽園。さながらアダムとイブのように。 「……いや、」 久しぶりに声を出して否定する。彼女のいる部屋にいる間は、声を出すことができない から。自分の声を聞くのは自分だけだ。 いや、と否定する。 さながら、ではない。 ある意味では――本質的には。 そのものだ、と自嘲するように呟いた。 「……構わない」 そう、 構わないとも。 世界にいるのは私と彼女だけであり、それだけで世界は成り立っている。楽園は閉ざされている。 彼女は禁断の果実を食べることなく、幸せを甘受して生きている。だからこれは私だけの苦しみだ。 一足先に禁断の木の実を食べてしまった、彼女よりに先に食べてしまったという、それだけのことなのだ。 構わない。 今更――悔やむはずもない。 世界には私と彼女しかおらず、 私は彼女を――愛しているのだから。 そうだ。 そのはずだ。 世界はそうやって成り立っている。 154 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 21 54 36 ID bV45Habb かぶりをふり、私は余計な思考を振り払う。悪い癖だ。どうしても考えてしまう。彼女が 成長すれば成長するほどに、考えてしまうのだ。 思考は余計だ。 思索は無意味だ。 後悔も躊躇も必要がない。 世界はこうなっているのだと、受け入れるしかない。 狂ってはいない。 初めからこうだっただけだ。 私たちはこうあることしかできず、 それならばきっと――外のほうが狂っているに違いない。禁断の木の実を食べ、楽園を捨て、 自ら滅びるほどに発展し繁栄した外のほうが。 それでも―― 「神様を――恨まずにはいられない」 アダムのように、私は呟く。 イヴのように、私は呟く。 私たちがアダムとイヴならば、それを作った神がいる。 比ゆではなく。 確かに――いるのだ。ただ神と名づけることしかできないだけで、それは私たちと同じような モノなのだろうけれど。この地下室を造ったものは、確かに存在する。 彼は、 彼女は、 何を考えて――こんなものを作ったのか。 希望をこめてか。あるいは絶望とともにか。不幸のどん底からのがれるようにか、希望を求めるためにか。 それとも。 私は思う。それを作ったのも、あるいは私なのではないかと――思わずにはいられない。 だとすれば、自業自得としかいいようがなく、 「――――――ははは」 いつものように私は笑った。 何度目か数えきれない思考は途絶えることなく、私は笑う。 閉ざされた箱の中で、笑い声は反響し、消えることはない。 156 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 22 05 57 ID bV45Habb いつも通りはいつまでも続く。次の日も私はいつものように食べ物を持って彼女の部屋を訪れ、 いつものように彼女はそれを食べた。その日は左足で、彼女はそれを抱きかかえるようにして食べていた。 血だまりの中で。 食べにくいのか、貪るたびに彼女の体が揺れ、必至で挑むように食べている。 ゆらゆらと、 白い髪が、 白い身体が、 黒い婚姻服が揺れる。 ゆらゆらと、揺れている。 振り子のように揺れる姿を、私は椅子に座ったまま見つめている。手をのばしても届かない距離だ。 彼女から手を伸ばしたことは一度としてなく、私から手を伸ばしたこともまた、ない。 まるで箱だ。 お互いが箱に詰められていて、外側を知り得ることはないのだ。彼女にとって、私など、食べているソレ と大差はない。 私にとって―― 私にとって、 彼女はどうなのだろうと、考えた。 「――――――」 考えるだけだ。決して答えは出さない。出す必要もない。 初めから出ているのだから。 言葉にする必要など――どこにもなかった。 いつものように彼女は食事を終え、いつものように寝転がる。今日は珍しく食べる量が少なく、 床に散乱する肉と血だまりはそのままだった。身体が倒れたときに、ばしゃりと大きな音と ともに血だまりが跳ね、波のように広がった。 仕方なく、私は血だまりを踏むように歩き、彼女のもとへと歩み寄る。身体を拭くためには 場所を変えなければならない。だが、そうすれば彼女は起きてしまうだろう。思案し、先に確 かめることにする。黒いウェディングドレスのスカートをまくり、下着を下ろし、 「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」 手が止まる。 視線が固まる。 意識は硬直し、心音だけが、高く深く跳ねた。 ずりおろした白の下着は、汚れていた。 外側からではなく。 汚物でもなく。 初めて。 初めて――内側から、紅く汚れていた。 ――初潮の、紅。 「――――――――は」 何よりも先に笑いが漏れた。 手よりも視線よりも先に、それらを全て忘れたように、口からは笑いが出た。 「は――――はははははは」 視線は穢れた下着にとまったままに、口だけが我を忘れたように笑い始める。はは、ははは、と。 彼女が起きるかもしれない、など思いもしなかった。何を考えることも放棄して、笑っていることを 意識できないほどに――私は笑う。 笑う、 笑わずにはいられない。 待っていたものが――ようやく訪れたのだから。 そうして、私は。 157 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 22 15 15 ID bV45Habb 「×××××」 初めて、彼女の名前を呼んで、 その体を、押さえつけた。 小さく、細く、壊れそうな体を――壊すかのように押さえつける。白い髪が散らばり、 押さえられた頬が血に埋まる。眠りについたばかりの彼女は、浅い眠りから叩き起こされた。 目を覚ます。 目を開けて――私を見た。 初めて。 おそらくは初めて、彼女は私を認識した。背景の一部でしかなかったモノが、突如として自身の 身体を押さえつけていることに驚くように目を開いて。そのことに私の方が驚いてしまう。彼女が 驚くとは思わなかった。何をされているかわからず、世界の一部として受け入れるかと思ったのだ。 構わない。 驚くが、驚くまいが――このあとの展開が変わるはずもない。 「――――――――」 彼女の視線を見返しながら私は動いた。ずりさげた下着はそのままに、めくりあげたスカート もそのままに。血を受けて黒く染まるウェディング・ドレス。逃れられないように、細い両手首 を片腕で抑え込み、 残る片腕で、自らの服を脱ぎ、性器を露出させる。 「――――――」 彼女は無言だった。無言のまま、私を見上げていた。何も言わない。何をされるかも、 わかってはいないのだろう。私が動いていることに驚いているだけで、行為そのものに 頓着はしていない。 構わない。 反応を――求めているわけではない。 委細気にすることなく、私はすでに張りつめていた性器を、何ひとつ愛撫していない 彼女の秘所に突き刺した。愛液ではなく――血に濡れる秘所へと。 短剣のように。 「――――――――!!」 流石に劇的な反応があった。行為の意味は知らずとも、痛みだけは明確な事実として存在する。 突然内臓を抉られたようなものだ。無理やりに押し開かれた秘所の痛みに、彼女は暴れようとする。 無理だ。 細い腕は暴れれば自ら折れそうなほどに弱いのに――逃れられるはずもない。ばしゃばしゃと、血の 水たまりをかき混ぜるように動くことしかできない。逃れることができない。一部で繋がり、一つとな った体は、前へ進むことすらできない。 悲鳴をあげる。 声ではなく、 音を張りだすように、彼女は痛みからのがれる悲鳴を叫んだ。 ――ああ。 良い音だ、と思う。それは初めて聞く彼女の音だった。微笑みではない、彼女の内側 から発せられる意図だった。他人から与えられるとはこんなにも良いものなのか。突き さした性器は痛いだけで快楽などなく、その音によって恍惚を得る。 縛っていた手を放し、彼女を後ろ向きに組み伏せるようにする。自由になった手をばた ばたと動かすが、やはり血をかき混ぜるだけだ。必死に前へ――私から離れようとするが、 しゃくとりむしのように前後するだけで、一歩として前へは移動しない。 ばしゃり、 ばしゃりと、血が跳ねる。 血の海で、溺れている。 158 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 22 23 09 ID bV45Habb 初めての性行為を心地よいとは思わない。知識でしか知らなかったことを体験したところで、 快感があるはずもない。痛い。ただ痛い。彼女が突き刺される痛みに悲鳴をあげるように、私は 締めつけられる痛みに臓器を持っていかれそうになる。当たり前だ、たった今、今日、初めて変 わったばかりの体なのだ。性交渉に向いているとは思えない。 けれど、 向き不向きに関わらず、 彼女はもはや、未熟ではない。 未成熟ではない。 熟している。 果実は、熟れた。 受け入れることができる。 子供を造ることができる。 それだけが全てだった。 無作為な前後運動を繰り返す。自身は動かない。後ろから抱き締めるように彼女の 身体を固定するだけでいい。彼女は這って逃げようとし、逃げられずに戻ってくる。 鈍感な往復運動。内臓で内臓が擦られる。 熱い。 痛くて、熱い。はちきれそうなほどに。 堪える理由など、どこにもありはしなかった。 迷いなく、 繋がったままに、 解き放つ。 「……………………!!」 一瞬――視界が白く、真っ白に染まる。自身の腰が意志と関係なくはねる、抱きしめた 彼女の身体が同じように跳ねるのがわかる。同じように、彼女の意識もまた白ずんでいる のかもしれない。意志を、力を、生命を、絞り込むように彼女の中へと放出する感触。 注ぎこまれる感触が、彼女をむしばんでいる。 腰がはねる。止まらない。二度、三度と放出し、そのたびに彼女の身体が痙攣する。逃 げようとしていた身体が止まる。力の抜けた身体が血の海に突っ伏し、だらしなく開いた 口から唾液とともに舌が零れ、無意識で血を舐めていた。 そっと―― つきさし、今は萎えたそれを抜き取る。白と紅に汚れてたそれを抜き、しまうことなく、 私は彼女を見下ろす。 動かない。 死んではいない。初めての外的接触に意識だけが飛んでいる。私もそうしたかったが―― 最後の力を振り絞るように立ち、彼女の箱を後にした。 ……ぱたん。 159 :はやくおおきくなあれ ◆msUmpMmFSs [sage] :2008/05/03(土) 22 38 20 ID bV45Habb 戸を開け、しめる。それだけで世界は隔離された。 「……………………」 小さな部屋だ。箱状で、彼女が生きる部屋と大差はない。地下深くに沈められた世界は、 二つの箱が繋がりあうような構造になっている。本来ならば向こうが居住区であり、こちら が生命維持のための部屋だったに違いない。地上から離れても、長く長く生きていられるように。 再び『上』が命溢れる世界になるまで逃れるために。 生命維持。 それは――間違っていない。確かに向こうの部屋が停滞ならば、こちらの部屋は生命だ。 ――禁断の果実がここにある。 彼女が食べることのなかった果実が、私の前に広がっている。 ずるずると戸に背を預けて座り込み、私の箱を見遣る。箱は狭い。純粋な大きさは彼女の箱と 変わりないのだろうが、モノがあるかないか、という一点で印象の差がわかれている。 彼女の箱には、椅子しかない。 この箱には椅子はない。椅子を埋める間もないくらいに――みっちりと、機械類が詰められている。 命を維持するための機械と、 命を造るための機械が。 「………………ようやく、」 私はひとりごとを呟く。ここにいるのは独りではないが、独り言でしかない。 彼女たちは、聞きはしない。 眠りにつく彼女は、ただのモノでしかない。 それは命だ。 食糧にして――命だ。 「…………前へと、進めそうです」 私は呟く。笑いたかった。けれど、きっと笑いは浮かんでいなかっただろう。 むしろ――笑ってほしかった。 彼女に。 彼女たちに。 私は見上げる。隣の部屋で成長する××××と同じ姿を。巨大な試験管に詰まった彼女の姿を。 箱の中にみっちりと詰められた試験管の群れを、その中で眠り続ける彼女たちを。無限に造られ ながらも生殖機能を持ち得ない彼女たちを。 ――楽園は完全だ。閉ざされている。死すらなく、子供を作る必要などない。 酷い冗談だ。この中にいる限り死ぬことはなく、それが故に子供を作る機能がないだなんて。 それを得たければ、外で育てるしかないだなんて――コレを食べながら。 禁断の木の実。 すべてが、それだ。彼女そのものが。それを食べてしまった以上、二度と楽園へは戻れない。 私は、独りでは生きられない。 だから幾度となく続けるのだろう。彼女が子を成すまで。私以外のモノが生まれるまで。自分以外の 他者が生まれるまで。たとえ同一のモノから生まれたとしても、それは別のモノだろうから。 愛すべきダレカが生まれるのを願って――私はぼんやりと、立ち並ぶ試験管を、 私と同じ姿をした彼女たちを、ずっと見つめていた。 世界は狂っている。狂ったダレカが作ったから。初めから狂った私たちは、独りでなくなることを祈り、願う。 はやくおおきくなあれ、と。 (了)
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/1215.html
172 :枯れ落ちて朽ちゆく枝 (1/4) ◆6AvI.Mne7c [sage] :2009/04/12(日) 17 36 47 ID c1smQVOK 「こんばんわ、桃枝(ももえ)さん。お願いしてもいいかしら?」 「ええ、いいですよ。○○市まで送ればいいんですよね?」 ワタシの名は桃枝。とあるしがないアパレル系の会社員だ。 こんなワタシだけど、すでに愛する夫がいたりする。 まだ28歳だが、10才の息子と4才の娘だっている。 「けれど大変ね。貴女もこんな時間まで仕事があるなんて」 「ふふ、仕方ありませんよ。 ワタシだってあの人だって、稼がないといけませんからね」 そう、ワタシは今の夫が好きで、あの時学生の身で結婚を迫った。 それだけあの人が好きで、ちょっとばかり人には言えない手段もとった。 それを知っても、あの人は苦笑いして許してくれた。 だから、ワタシはいま、最高に幸せだ。 たとえ少々急ぎすぎたせいで、稼ぐために共働きになろうとも。 たとえ仕事の都合で、あの人と別々に暮らさざるを得なくとも。 「まあ、今日からしばらく休みだったわよね? これから、愛しの夫のところに向かうのかしらね?」 「……!? もう、からかわないでくださいよ! 思わずワタシ、ハンドル操作を間違えるところだったじゃないですか!?」 この女性は、ワタシが愛する夫の、実のお姉さん。 とても弟思いで、学生時代からブラコンとして、名実ともに有名だった女性。 一説では、この人がいる限り、私の夫――彼には手が出せないといわれていた。 でも、ワタシは彼を諦められなかった。 一目惚れ――入学式の時に、桜の樹の下で微笑む彼が、とても眩しかった。 ぜったい彼を逃がしたくない。彼はワタシが一生をかけて愛するんだ! だから、この恐ろしい「お姉さん」の隙をついて、彼に告白した。 でも多分、彼はお姉さんに遠慮をして、告白を断ってくるだろう。 だから、ワタシは少々荒っぽい手段で、彼をつかまえることにした。 173 :枯れ落ちて朽ちゆく枝 (2/4) ◆6AvI.Mne7c [sage] :2009/04/12(日) 17 37 25 ID c1smQVOK 「知ってるのよ? 貴女のおなかの中に、3人目の子供がいるってことはね。 まだ2ヶ月くらいだけど、順調に育てば、今年の夏過ぎには産まれるのかしら?」 「!?――もう、どうしてそれを知ってるんですか? まだあの人にも、話してなかったんですけどね……?」 彼に告白した時、断りの返事を貰うより早く、彼に睡眠薬を嗅がせた。 場所は体育館裏の倉庫前だったから、すんなりと彼を密室に引っ張りこめた。 そしてそのまま、彼を裸にして――その、エッチさせてもらった。 そしてワタシは妊娠して、彼になんとか認めてもらうことに成功した。 もちろん、事前準備も一切怠らなかった。 排卵誘発剤を服用して、この計画の成功率を十全にさせてもらったのだ。 「ホントにもう、何を言ってるのよ、貴女は。 大切なあの子のことで、私が知らないことなんてないわよ? それと同時に、あの子の妻である、貴女のことだって、ね?」 「―――っ!? そ、そうですか……」 結果、彼は私のことを認めてくれて、学生の身で結婚まで約束してくれた。 ただ1人、この人だけは最後まで、ワタシたちの結婚に反対していた。 けれど、ワタシと彼ががんばって周囲を説得したおかげで、最終的には認めてくれた。 彼の家が貧乏だったせいで、その説得には、実に3ヶ月を費やした。 結局、高校卒業後に2人で働きながら、であれば結婚してもいいということで、纏まった。 「本当に、本当に心の底から、羨ましいわ、貴女が。 私の大切な弟と、一緒に幸せに生きている、貴女が」 「…………」 この人に対しては、彼が直々に説得してくれた。 その期間はゆうに4ヶ月かかったらしい。とにかく最後まで抵抗された。 でも、ワタシが息子を出産すると同時に、彼女の気性はとても落ち着いた。 むしろ、ワタシの息子を、とても大切に見守ってくれるようになった。 だから、今更あの頃のような、ワタシを構わず攻撃してくる事態には―― 「本当に、本当に心の底から、妬ましいわ、貴女が。 私の愛しい弟を、横から掻っ攫っていった、貴女が」 「…………!」 駄目だ。10年前の悪夢再来だ。 彼女はまた、ワタシに向かって、牙を剥いてくるつもりのようだ。 174 :枯れ落ちて朽ちゆく枝 (3/4) ◆6AvI.Mne7c [sage] :2009/04/12(日) 17 38 10 ID c1smQVOK 「ワタシこれから、あの人のところに行って、妊娠のことを伝えるつもりなんです。 なのでお姉さん、ワタシまたあの人と一緒に、両親達の墓参りに行くつもりです」 ワタシの両親は、8年前に旅客バスの事故で亡くなった。 偶然にも、夫の両親と一緒に出かけた先でのことだった。 お互いにそれほど裕福でなく、私たちのせいで苦労をかけていた彼らを労うための旅行。 ワタシ達があんなプレゼントを用意しなければ、みんな死ななかったのかもしれない。 そんな思いがあるから、ワタシが娘を出産する前にも、墓前に報告に行っていた。 今回もそのつもりで、まずはあの人の住む安アパートに向かう予定だったけど―― 「そう。また貴女は、自分の息子と娘を置いてけぼりにしちゃうのね? 私がちょくちょく顔を出しているけど、あのチビちゃん達いつも泣いているのよ? あのチビちゃん達だって、まだまだ母親を必要としているのにね――」 痛いところをついてくる。もはや彼女からは、敵意しか向かってきていない。 解っている! ワタシがちゃんと、あの子達の母親として機能していないことも。 知っている! ワタシよりも彼女の方が、よほど母親として機能していることも。 くそっ! 叶うならば今此処で、このオンナの息の根を止めたいのに――!? 「やれやれ。10年間我慢してたけど、やっぱり貴女は、あの子の伴侶に向いてないわ。 あの子や、あの子の子供達を幸せにできないなんて、妻失格だものね。 だいたい、貧乏なのを解ってて、既成事実で攻めるなんて、間抜けすぎるのよ。 私は今の貴女みたいにならないように、わざわざ避妊していたというのにね。 貴女の身勝手で、私の弟の息子と娘が泣いてるんだもの。最悪ね、貴女は」 「わかってる――わかってたわよそんなコト!? だからもう黙れ……!?」 苛々する! こんなオンナに事実を淡々と突きつけられるということに! 幸せ!? 嘘なんかついてどうするのよワタシは!? あの人と、ワタシと、あの人とワタシの子供達と、みんな揃って初めて幸せだったのに! ワタシが欲しかったのは、ただただ食い扶持を稼ぐために、働く生活なんかじゃないっ!? 「だけどあの子の息子と娘は、もうすぐ幸せになるわよ? さすが、私の血縁であるあの子の血をひいていた、というべきかしら? ――ふふ、どういう意味か聞きたいって顔をしてるわね? 簡単よ。まだ4才に過ぎないあの子の娘が、私みたいなことを言い出したの。 その相手は、まだ10才に過ぎない男の子――あの子の息子よ」 そんな……!? ワタシとあの人の子供達が、またそんな外道に……!? まずい、こんなオンナは振り捨てて、早く止めに―― 「――あら? つい話に夢中になってたけど、もう○○市内なのね? ここで降ろしてもらったのでいいわ。ありがとう、桃枝さん。 それじゃあ、あの子の家に向かうか、子供達のいる自宅に向かうか、好きになさいな?」 そう言って、ワタシが急停車させた車の扉から、悠々と降りる彼女。 撥ね飛ばしたいが、それより早く、事実を確認しに行かないと―― 175 :枯れ落ちて朽ちゆく枝 (4/4) ◆6AvI.Mne7c [sage] :2009/04/12(日) 17 38 49 ID c1smQVOK 「あ、そうだそうだ、忘れてたわ。 貴女に対しての伝言が2つあるの。聞いていきなさい。 1つ目、あの子の娘――さくらちゃんから。 『あたいはおにーたんとけっこんする。だからおかーさん、じゃましないで』。 2つ目、純粋に私からの、貴女へのメッセージ。 『1では孤独、3では不安定。ならば安定させるには、どうすればいいのかしら?』」 何を言っているのかわからない。本気でわかるつもりもない。 このオンナが車の扉を閉めるのを確認した後、ワタシは必死でアクセルを踏み込んだ。 最後の最後、バックミラーに映るあのオンナの呟きも、一切無視して。 ― ※ ― ※ ― ※ ― ※ ― ※ ― 「最後まで、馬鹿で愚かなヤツだったわね、あのメスブタ。 3が不安定なら、その中の『1』に孤独になってもらう、ただそれだけよ。 それじゃあバイバイ。私は貴女を踏み倒して、幸せになるわ。 さあ、あの子を幸せにするために、私もがんばりますか――」 そう言って、徒歩でその場を後にする女性。 彼女の手には、やたら金属のぶつかりあう音のする、スポーツバックがあった。 ― ※ ― ※ ― ※ ― ※ ― ※ ― あれ、ワタシは確か――そうだ、あの人のところに向かう予定だったんだ。 でもおかしいな、身体がちっとも動かない。目の前も真っ暗だ。 そういえば、ワタシが眠る前に、眩しい光が正面から来て―― 思い出した。ワタシは車の運転中、急に眠たくなって、車線を飛び出して―― あはは……、残念だけど、ワタシの物語は、ここで終わりなのね。 あのオンナに後を譲ることになるのは悔しいけれど、仕方ないみたいね。 いいわ。アンタがワタシの大好きな秋桜(しゅうさく)さんを、幸せにしなさいよ? ワタシがいなくなっても、あの人が泣いてくれるなら、ワタシが生きた意味はあるんだから。 そして、間違いなくワタシの大切な子供達――桜華(おうか)、さくら。 アナタ達も、絶対に――ワタシの分まで、シアワせになりなさいよ。 あはは、ホントウはもっとイきていたいけど、もうムリか。 それじゃあばいばい、さくら。 さようなら、おうか。 おやすみなさい、しゅう……さ……―― ――――――――――――
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/867.html
255 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01 52 33 ID Fe03hxK+ いつからでしょう。 父が母に愚痴を度々こぼすようになったのは―。 父が知らない女の人に怒鳴られているのを見たのは―。 父のやつれた表情を見るようになったのは―。 誕生日、決まって連れて行ってくれたレストランへも行かなくなったのは―。 幼心に偉大なものとして、絶対視していた父の背中を見ることができなくなったのは―。 何もかも取り戻せなくなってしまったのは―。 それ以来、私には父の記憶は一切無い。 父の記憶というと幼い頃の数年しかない。 父は母と娘である私が居ながらも、私たちと同居していなかった。 ただ、私たちの家を訪れるときには決まって、父はケーキを買ってくるのだった。 そのケーキの甘さが妙に鮮烈に残っている。 当時は、父が母と同居するものだという感覚はなく、父が来るたびに、はしゃぎまわっていた。 今からすれば、父の表情は曇っていて、無理に作り出した笑顔が痛々しかったような気がする。 けれど、私はそんな事お構いなしに両親をあちこちへ連れまわした。 そして、日が暮れる頃に帰っていく父を見送って、今度はいつ来るの?などと無邪気に尋ねたものだった。 当時は、それでもまだ良いほうだった。 父と私そして母との決別の日までは―。 父には妻と呼ぶべき人が母のほかにも居たのだ。 そのもう一方の妻が私の母から父を遠ざけのだ。 その妻というのが厄介な人だったらしく、自分の目的の為には夫を怪我させることも厭わなかったのだという。 ふと、目を閉じると陰影のある表情だけでなく、必ずどこかに絆創膏や包帯をしていた父の姿が瞼の裏に映し出される。 その傷を見るたびに母は哀しげな表情をして、自分のところには来ないよう言っていた。 そのことで何度か母に疑問を抱き、それを口にした。 しかし、母は口を真一文字に引き、こみ上げてくる何かをこらえた表情で、こういうものなのだ、と納得させようとした。 寧ろ、それは自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。 父と母の接点が完全にたたれてしまった後、私が小学生になる前だから、二年と経たずに、母は急逝した。 親戚の人間があたりをはばかるようなヒソヒソ声で、自動車事故でショック死だったと話していた。 しかし、私はそれが真実ではない事を知っている。 ある冬の寒い日のもうとっぷりと日が暮れた頃、母は直感的に何かを感じ取った。 そして、私はどこかに隠れているように母に促され、クローゼットの中にしまわれている布団の間に身を潜めさせられた。 何故こんなことをするのか、母に聞いたがそれに答える前に、母はクローゼットの戸を閉めた。 それからすぐだった。 わずかに開いた隙間から漏れこんでくるように見えた居間の光景が屠殺場に変わったのは―。 そこで母を葬った悪魔は包丁を母の右胸に突き立てた後、四肢をずたずたに刺していった。 母の顔が苦痛に歪んでいくのが見えた。 しかし、母は抵抗せず、断末魔の叫びすらあげず、なされるがままにしていた。 それに対して悪魔はそのつややかな黒髪に返り血を浴び、微笑みながら訳のわからないことを呟きながら、母を何度も何度も刺していた。 どんなにその拷問が苦しかったことか、私には想像することもできない。 しかし、母の身に降りかかった悪夢を魂が抜けてしまったようになった私は何もできずに眺め続けていた。 暫くして、満面の笑みを浮かべた母は、五六人の人を私たちの家へ招きいれ、しぶきにしぶいて血痕の染み付いた壁紙やら畳やらを全て変えさせていた。 そして、自身は悪魔とは思えないような真っ白なワンピースに着替え、髪についた血を穢れたものであるかのように丹念に洗い流していた。 それから、そのハゲタカ共は母のまだ温かい骸を持ち去っていった。 恐ろしさのあまり、連中が去った後もクローゼットのなかで私はずっと震えていた。 そして、母が死んだと叔父から知らされたのは次の日の朝のことだった。 256 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01 54 33 ID Fe03hxK+ それからすぐに、死体を焼き場に送り、私の身の回りの整理を母の兄である叔父がすぐさま始めた。 それから、叔父が私を引き取ることになった。 この頃から、私は叔父の姓である「村越」を使い出した。 叔父夫婦には長い間子供が生まれなかったらしく、私は実の娘のように育てられた。 おそらく、おおむね幸せといえるものかもしれない。 けれど、私は気づいていた。 母が死んだのを境に貧乏で借家住まいだったはずの叔父が一戸建てを購入し、金遣いも派手になっていたことに。 中学生ともなれば、少しは世の中の事がわかってくるものです。 私が成長すると共に薄れていくように感じられた叔父夫婦の私への愛情は成長ゆえの事ではなかった。 叔父夫婦に引き取られて五年も超える頃ともなれば、父の残した財産とおそらく、あの黒い悪魔から叔父夫婦に渡った金もそこをつき始める頃だったのでしょう。 それに気づきだして以来、それまで無償の愛として受け入れてきた叔父夫婦の行動一つも禍々しいもののように見えたのです。 父も母も小学生になる前に失うという狂った記憶が不信の感情に転化して心根に根ざしてはいました。 しかし、私は叔父夫婦にはその不信の目を向けることがそれまでには無かった。 それだけに、私は人間そのものを信用しなくなり、と、同時に幼く無力だった私から愛する父を母を、奪い去った女を母と同じように、寧ろそれ以上に苦しめて殺すことを願うようになった。 復讐心と疑心暗鬼とが私の心を違和感無いほどに支配していた頃、私は幼い頃の記憶を頼りに一心不乱に情報をかき集めていた。 その復讐のみが私の生きる理由となりつつあったでしょうか。 去年の冬、私はとうとうその母を殺した犯人と父の現在、そしてその正妻である犯人との間に娘が居ること、といった決定的な情報を手に入れた。 その悪魔が住んでいたのは奇遇にも皮肉にも、私が住んでいる町と同じだったのです。 しかし、彼女は発狂して家から隔離されているということも知りました。 発狂する前に、母に向けた微笑みと同じ悪魔の微笑みを浮かべて、苦痛と哀願に顔を歪ませる敵を何度も何度も、刺してしまいたかった。 なぜなら発狂してしまえば、苦痛も罪悪も、悔恨の念も何もかも起こりえないのだから―。 私はその敵の娘の情報も手に入れていることを思い出した。 幸運にも私の親戚がもともと住んでいた家の近くに住んでいたので、そこへ行くことを考えた。 どうせ、叔父夫婦も私の事を早く厄介払いしたいような様子も見え隠れしていたのでこちらもそれは望むところだった。 敵の娘を殺した後、その母の命も奪う。 そう私は決心しました。 もとより、血塗られた道を歩むことは覚悟していたのでそのときに特別何かの感情が沸きあがることもなく―。 ただ、完璧に、一分の瑕疵なく、復讐を成し遂げなければならないという蒼い炎を心に点しただけだった。 そして、私は今年の春にその敵の娘が通っている学校に首尾よく潜入することができた。 ここでの生活はそれなりに楽しめるほうだった。 親戚からすれば厄介者が家に来たということで、風当たりは厳しく相変わらず家庭では心安らぐことは無かった。 最初は情報収集のために近づいた人々が思った以上に私に好意的に接してくれて―。 兄がそれなりに敵の娘と接触を持っているという情報を得て、松本理沙と私は知り合った。 なぜか、彼女だけは私の心の闇を察したかのように、いろいろと気を遣ってくれた。 必要な事意外、話すことが無かった私に彼女は話してくれて、私もそれにだんだんと引き込まれて、やがていわゆる親友、とでも呼べる間柄になった。 私と理沙はさまざまな事で話し合った。 理沙は幼い時分から重い喘息の持病に苦しんできたという。 だから、それだけに苦しい思いをしてきた人の目がわかる、のだと。 彼女と触れ合っている間、私は当初の目的を忘れている事ができた。 257 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01 55 17 ID Fe03hxK+ そのお金で雇った探偵が一月に二回渡してくれる報告書にもまるで目を通さないようになった。 私にもまだこんな人間的な面が残っていたのだと正直驚きました。 だからといって、それを拒絶する気になれなかったのです。 ぬるま湯につかっているような生活が妙に心地よくて。 しかし、五月の終わりごろから理沙は次第におかしくなっていった。 度々うんざりするほどの美化がなされて話されていた兄が例の敵の娘に奪われようとしている、という一件が理由でした。 それまでは、何度かおかしいよね、程度のさほど刺激的でないレベルで話をされていたので、特に気にも留めなかった。 当時はまだ、理沙を情報屋のひとりとしかみなしていなかった節もあったから、さほど親身ではなく、適当に聞き流していた。 けれど、その理沙の変化は私に目を見開かせることを促進したのです。 つまるところ私にとっては敵を討つという良い方向へ向かい始めていました。 そして、私は理沙に協力して、いろいろとあの敵の娘を追い詰める為に奔走しました。 ここで私は雇っていた探偵から来た情報を利用したのはいうまでも無い。 理沙は協力的且つ情報私に始終驚いていたが、あまり深く考えず私を利用することに決めたようでした。 私としてはあの敵の娘を殺した後、その母も殺さなければならない予定であるから、理沙に娘の件は引っかぶってもらい、すぐさま長野へ向かう、という計算があったのでそれはそれで好都合な事。 結果的に利害が一致した私たちは協力して様々な工作を行った。 理沙が兄である弘行と交わっていた、という情報も意図的にあの敵に流した。 かみそりの刃を下駄箱に仕掛けたり、椅子の捻子を緩めておいて、座ると椅子が崩れるようにしたり、そんな感じで。 あの敵のクラスメイトがあの女を苛めるように差し向けたりもした。 もっとも煽動をしていたのは私というより、理沙のほうだったが。 これだけの事をやったのだから、あっさり自殺してくれるのでは、などと淡い期待を抱いていたりもしました。 しかし、そんなこともなく、逆に弘行と敵が結ばれてしまった。 当然、自殺されてしまったら私としては不満足の極みには違いないのでしょうが。 しかし、それもこれも昨日までの話だ。 数分後に、理沙から連絡があれば、私も手はずどおり北方邸に向かい、拷問に参加する。 それで、一件目は終了。二件目へ移行する。 夏の風が私の体をかするように通り過ぎていく。 うっすらと汗ばんだ皮膚に当たる汗が少し冷たい。 人を殺す前の興奮が故なのか、夏の蒸し暑さの故なのか汗ばんでいた。 下着が皮膚につくような感覚が不愉快で嫌になる。 そんな時、右ポケットに入った携帯電話の受話器を耳に当てる。 258 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 01 57 17 ID Fe03hxK+ その内容に私は耳を疑い、二三、確認してから、夜の漆黒を切り裂いていくように走っていく。 それにしても、衝撃の展開だった。 あの敵を守る為に、自らナイフをもって突っ込んできた妹の前に立ちふさがるとは―。 第一、打ち合わせではクロロホルムを二人に嗅がせ、北方は北方邸の離れにある隠し地下室で拷問死させる。 それが、いきなり襲い掛かることで、崩れてしまった。 理沙は逃げた北方を追っているという。 なんという蛮勇であろうか。兄も、妹もまた然り。 それにしても理解できないのは弘行の行動でしょう。 蛮勇を振りかざす事など決して美徳ではない。 そして、勇敢でもない。 そこまでして、あの生きるに値しない奴を守ろうとする理由がわからない。 まあ、弘行は出血はやや多いようだが、急所に刺さったわけではないから、別にたいしたことは無い。 せいぜい、あの敵を殺す際に利用するだけだ。 愛するものをずたずたにされていく様子を見せた上で、ほどほどに死なないような拷問を加え続ける上で彼は重要なスパイスになることだろう。 街灯も薄暗い、町の中でも外れのほうに血濡れのナイフが突き刺さっていた彼は横たわっていた。 理沙が決行するといっていた公園からはいくらか離れている。 そこに居た彼は息も絶え絶えであった。 理沙から多いとは聞いていたが、思った以上に出欠量が多いようである。 開いた傷口に右手を当て、出血を押し止めるような仕草をして、もう片方の左手はアスファルトの上にあった。 苦痛に歪む口元が非常に痛々しい。 そして、怜悧な月光が朱に染まったアスファルトを照らし、赤黒い液体をいやがおうにも引き立てた。 身を張って誰かが助けようとした代償が生々しくも、血だまりでもがき、臓腑を血に溺れさせていることなのだ。 それは凄惨にしてどこか神聖な光景。 少なくとも、先程の蛮勇という言葉は撤回するには十分なものでしょう。 理沙は常々、この兄の事を愛しているといっていたのを覚えている。 しかし、こんな状態の兄を見捨てていくということは、所詮彼女にとってその程度のものであるということです。 発言と行動が裏腹などといくらでもある。 けれども、人を殺してでも守りたい、と思うならあの女を取り逃がしてもこの哀れな兄を救うべきではなかろうか。 260 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 00 30 ID Fe03hxK+ 「ううう……」 うめき声がする。私の存在に気がついたのだろう。 別段、身を隠すつもりなど無かったので、そしていずれにせよこの兄は北方邸に運ぶことになっている。 だから、敢えてこちらから声をかける。 「松本弘行さん?」 「た、助けてくれ……ごほぉっ」 苦しみ耐える表情で哀願する。 しかし、その言葉も咳と共に血を吐き出した事によって遮られてしまう。 「無理に話さないでください。大丈夫ですよ、助かりますから。」 所詮は他人事である私にとってこんな確証の無い事を言ったとしても良心は痛めることはない。 しかし、こちらとしては北方邸に連れて行くことが目的であるため、ここで出血多量で死なれてしまっては都合が悪い。 だから、話して出血されては困るので警告も発した。けれども、それを聞き入れないようです。 「た、助けて……くれ、しぐれ、をた、す、け、て……ごほっごほっ、し…ぐ……」 だから、すぐにまたしても血が押さえる手の間から染み出てきて、真っ赤に染まった口をさらに血で洗うことになった。 しかし、私はさっきから助けてくれ、という言葉は『自分の命』の命乞いをしているものとばかり思っていた。 けれど、この男は自分の命を捨てるつもりのようだ。 その代償としてあの女を救う為に。 何と状況認識能力に欠ける人なのでしょうか。 何と愚かな人間なのでしょうか。 何とおめでたい人間でしょうか。 あの女が私の母が置かれた状況と同じく、土壇場にありながら、ここまで誰かに守ってもらえているという不公平さや怒りのようなものを感じた。 しかし、その怒りを通り越して、呆れてしまった。 右ポケットの携帯電話を取り出すと、10桁の番号を打ち込んだ。 3桁ではなく、10桁にしたのは、私には時間が限られているからである。 警察を相手にすることで、復讐を完遂できないという間抜けな話を作ってしまうことになるのは嫌ですよね。 「もしもし、誰かに刺されたと思われる人がいるんですが……」 261 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 01 33 ID Fe03hxK+ 夜の闇の中、私は走った。 むしろ逃げていた。 私の家に無事にたどり着き、そして来るべき反撃の機会に備える為に。 それは、例えるならば、鬼ごっこのようなものだ。 それは、無言の中で繰り広げられる残酷な殺し合い。 青白い月の光があざ笑うように私たちに降り注ぐ。 当然、『待て』と言って私も相手も止まる訳が無い。 そして、後ろからやってくる追っ手は武器を手に私を殺さんと息巻いている。 自分の兄を刺しておきながら、しっかりと敵の私を討とうとしているのだ。 けれども、私とて防戦一方という訳ではない。 虎視眈々と反撃のチャンスを狙っているのだ。 驚いたことに、私の中で眠っていたはずの醜い憎悪という感情が再び目を醒ましてしまったようだ。 それは、至極当然。 目の前で弘行さんが刺されたのだから―。 私の生きる意味を無残にも壊されてしまっては、私とて彼女の事を許すわけにはいかない。 許す、許さないの範疇ではなく、今日までのありとあらゆる攻撃に対する報復として、愛するものを奪われた者の気持ちを解らせる為に、あの雌猫を殺す。 それで、私ごときの身代わりになってしまった哀れな彼へのはなむけになれば、彼を見捨てて逃げてきたことへの贖罪になるというのなら、今の私にはこれに替わる僥倖は無いだろう。 今のうちに、いくらでも追い詰めるものの心地よさを味わっているがいい。 彼女にもすぐに諦念の夜が訪れるのだから。 262 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 02 37 ID Fe03hxK+ もう、私の家まで目と鼻の先だ。 その安心から一刹那の間、油断が生まれた。 後ろから、空を切る音がした。 そして、咄嗟に身をかわす。 振り返りざまに、閃きを発する白刃が見え、戦慄する。 雌猫が所持しているナイフが一本だとは誰も言っていないのだ。 振り下ろされるナイフを間一髪のところでよけきる。 家まであと少しのところだというのにも拘らず、こんなところで捕捉され戦わなければならない自分の運命を呪ったが、 そんな事を考える余裕を雌猫が繰り出してくる第二撃に備えることに費やした。 左右ランダムに振り下ろされ、皆一様にこちらに向けられてくるナイフを全てかわす。 理沙の体が小さく、力も弱いことが幸いしたようだ。 雌猫は振り上げ下ろされたナイフを逆手に持ち替えると、真正面の私に向けた。 そして、ナイフを握る手に力が篭る。 そのまま、私に向かって刺し貫くだけだろう。 相手の手首をすぐさま掴み、虚空に向かって振り上げ、ナイフを奪い取ろうとする。 雌猫も私の目的を理解しているらしく、乱暴に左右にナイフを持つ両腕を振り動かした。 抵抗の激しさはとても病弱な雌猫であるとは決して思えない。 けれど、腕を動かすことに集中していたが、その内面とは不似合いなまでに華奢な脚には意識が十分にいきわたっていなかった。 必死にもがく雌猫の左脛を思い切り蹴りとばす。 途端、雌猫は体勢を崩し、あっけなくも左に背中から傾いてしまう。 即座に私は両の腕に握られていたナイフを荒々しく奪い取る。 そして、雌猫はその場にしりもちをつくような形になってしまった。 芋虫のように雌猫は後ずさりし、顔を恐怖に歪ませた。 完全なる形勢逆転である。 武器を取り、地形効果を十二分に活かせる私の家で死闘を繰り広げる心積もりでいたのだが、王手積みである。 もはや、武器を取りに行く必要すらない。 ここで、止めを刺すことができる。 そう、それで良いのだ。それでこそ、弘行さんの犠牲が意味を持つのだ。 この害物を駆除すること―。 私が一番最初に考えた方法だった。けれども、あの時以来、一度もその方針を採ろうとはしなかった。 この方法が市場手っ取り早かったのにも拘らず、何故しなかったのか今になってみれば疑問である。 私は血に穢れておらず、寒々しいまでの清澄な金属光沢を持つナイフを月の光にかざすように振り上げる。 誰もが、ある一転を除いた、この状況を目にしたならば、完全に北方時雨の圧倒的優勢であると判断するだろう。 時雨は理沙のナイフを奪い取られた後の右腕が右ポケットに入っていることに気づかなかった。 気づいていたとしても、あまりにも無頓着に過ぎたようだ。 唯一ついえることは、松本理沙はこんな絶望的逆境にいたっても、冷静であった、ということであろう。 そして、理沙の中で流れる時間は決して止まることは無かった。 時雨がナイフを理沙の首元につき立て、頚動脈を切断しようとした刹那、完全に理沙は動きを読みきっていたかのように、悠々と身をかわしながら、立ち上がる。 そして、アスファルトの上に座り込んでいたのは理沙ではなく、時雨の方であった。 時雨は首を左腕で押さえて苦しんでいた。 263 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 04 18 ID Fe03hxK+ そう。理沙は右ポケットに入っていたクロロホルムを時雨にかけたのである。 散布した後に転がった薬瓶の転がる音が空しく虚空に響いた。 時雨はまさか、理沙から渾身の反撃を食らうとは予測しておらず、諸に瀬戸黒の髪と白磁のような肌とにかかってしまった。 理沙は左ポケットから気化したクロロホルムを吸ってしまわないように、化学の実験のときにいつも使っているマスクで口を覆う。 と、同時に双眸を時雨を見下ろすように向ける。 そして、そこまで保たれていた静寂を破った。 「あはははははは、北方先輩。いや、被告人。ここまでですよ。被告人は王手積みなんですよ!」 「私のお兄ちゃんを汚したからこんな事になるんです。」 「さぁ、先輩、最後くらい潔くしたらどうですか!」 しかし、時雨は勧告に従うこともなく僅かではあったが笑ってすらいた。 時雨は右手に未だに持っていたナイフを道路脇の人家に向かって投げた。 時雨は理沙には自分を殺すための武器がもう無い、そう判断していた為、自分が相手を刺し貫くより、逆の場合が高い唯一の武器を投げ捨てたのである。 それは、賢明な判断であっただろう。 しかし、そんな事は灯篭が鎌を振り上げたに過ぎないことだった。 理沙は畳を縫うそれのような大きさの針を手にしていた。 そこには、かつて彼女が生成したアトロピンが塗られていた。 針の反射するギラギラとした光が理沙の殺意の程をあらわしているようだった。 もはや、万事休すであると思われた。 「させません。」 そこで聞こえた声は時雨にとって聞き覚えのあるものだった。 けれど、それと同時に背中に強い衝撃を感じ、意識をどこか遠くに飛ばされたため、それが誰のものであるかを確認することはできなかった。 「うふふふ、スタンガンの電気ショックをまともに食らったら、動けなくなるのは当然、よね。」 そう嗤う声は、時雨にとって救世主だとすら思われたその声の主は、村越智子のものだった。 傍で唖然として突っ立っている理沙に声をかける。 「ねえ、理沙。どうしてお兄さんを路上で刺すことになったり、この女を計画通り、動けなくして北方邸まで連れて行かなかったの?」 「……お兄ちゃんを盾にして逃げたから殺したくなったけど、それが駄目なの?」 憮然とした表情で智子に返答する。 「まあ、気持ちもわからないわけじゃないけれど、ここで殺すより、計画通り苦しめて殺したらどうなの?」 「………。」 「まぁ、いいから理沙は両足を持って。私は両腕を持って運んでいくから。」 そういうと、気絶してぶらりと垂らしている時雨の両腕を持つ。 理沙もしぶしぶ、これに従い乱暴に持ち上げて、もう100メートルと無いであろう北方邸へと運んでいく。 264 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 05 35 ID Fe03hxK+ 十数分後、彼女らは北方邸の地下の牢獄のような一室にいた。 そして、そこに北方時雨も横たえさせた。 それから、眠ったままの時雨を古ぼけた椅子に座らせ、縄で拘束し、殺害に必要なアイテムを準備する。 しかし、その準備の間、ずっと理沙の表情は怒りの篭った表情だった。 地下室ゆえの湿度の高さやかび臭い匂い、そしてほの暗い負の環境が理沙を不機嫌にしているわけではなかった。 敵に止めを刺そうとするのを智子に止められた事によるものだった。 と、同時に理沙は湧き上がる罪悪感から、何度となく弘行の病院搬送を指示した隣の共犯者にその安否を尋ねた。 智子としては、無計画に兄を刺しておきながら、何の応急処置も施さず、その安否を女々しく聞いてくる理沙を軽蔑し、辟易していたが適当に理沙に相槌をうつことにした。 というのも、智子としては殺さなければならないターゲットはあくまでも二人であったからである。 数分後、やすやすと彼女らの準備は完了した。 けれど、それはナイフで何度も刺すという時雨自身が想定していそうな殺し方ではなく、特殊な殺し方であった。 目に目隠しをして、視界を奪い、拘束することによってからだの自由を奪い、正常な思考が働かないような不快な環境に入れる。 その上で、人間の血液がどの程度失われる事によって、死に至るのか、ということを時雨に話しておく。 そして、時雨の足か腕に適宜、強い衝撃を与え、そこに温水を少しずつかけて、血液が出ているという暗示をかけ、やがて致死量の血液が出きったのだ、と告げることによって狂乱の末、ショック死させることができるという。 いかに物理的苦痛を与えるか、ではなく、精神的苦痛を与え、最後の最後まで怯え、狂乱させることができるか、それを追求したのだ。 と、同時に殺人であることを見極めさせるのを遅くすることができる、という意図から、智子にとって都合が良かった。 それで、時雨は目隠しをされ、身体を芋虫ほどにも動かすことができないように、胴体と四肢を椅子と縛り付けられたのだ。 いまや、お膳立ても完了した。 後は時雨が目を醒ますのを待つばかりであった。 「ねえ、智子。いつになったら、こいつ、目を覚ますの?」 「電撃もそんなに大きかったわけじゃないから、もうすぐだと思うけれど。」 そんな会話をして手ぐすね引いて共通の敵である北方時雨が目を醒ますのを待っていたが、 彼女が目を醒ましたのはそのすぐ後だった。 265 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 06 40 ID Fe03hxK+ 誰か女の子が話す声が聞こえてくる。 頭にもやがかかったような感じがし、視界も真っ暗で本来見えるべき光景も何も見えない。 徐々に体の節々の痛みが温かみを持った生の感覚として感じられてくる。 そして、身体を意のままに動かそうとするけれども、理由がわからないが何故か動けない。 身体を動かすたびに足や腕の部分的箇所に痛みを感じた。 視界が真っ暗のまま、自分を拘束したであろう女の声が聞こえる。 「北方先輩、お目覚めですか?」 その声が紛れもなく、松本理沙のものであることを悟り、それまで僅かながらあった冷静さが霧消した。 無駄だと心のどこかではわかっていながら、抵抗をする。 足や腕に力を込めて動かそうともがいている姿を見て、ことのほか気に召したのか理沙と智子は哄笑した。 「あはははっ!先輩、そんなに怯えちゃって。心配しなくていいですよ。別に先輩を誰かに強姦させるとかしませんから。ただ、死刑を執行するだけですよ。」 「先輩はお兄ちゃんを強姦したけれども、かといって、私はそんなこと恥ずべきことしませんよー。」 続けて言う理沙の声に凶器染みたものを感じる。 と、同時に何も抵抗することができない自分に苛立ちを感じた。 「もっとも、北方さんとしたい、なんて考える物好きはいないと思いますが。」 清澄というよりは怜悧冷徹と形容したほうが正しい突き放すような声が聞こえる。 それが誰のものであるかはわからない。 しかし、すぐに相手も自分の存在を理解させる為に声色を変えた。 そしてそれが、自分が逆スパイとして利用しようとした村越智子のものであることがすぐにわかった。 偽の情報を流したというあたりから、時雨は疑いを抱いていたが、まさにその予想通りとなってしまったのだ。 そして、手順どおり理沙と智子は三回も三分の一の血液が体外に出ることで死に至ることを話して聞かせ、処刑が始まった。 突如足に電撃を受けたような衝撃を感じた。 そして、すぐに感じられる生暖かい血液が独特の粘性を持って、少しずつ肌を伝って落ちていく。 私は一分も勝ち目は残っていないことを十分に理解しながらも、じたばたと四肢を動かそうとする。 「あはははっ、そんなに体をじたばたさせてたら、あっという間に血液が出て死んでしまいますよ?」 心なしか、足を伝う血液の量が多くなってきたように感じられる。 流れ出る血液、そして迫り来る死に私は恐怖感を抱いた。 ここから、逃げだしたい。 死にたくない。 けれど、どうして? 生きていても、ずっと苦しんできただけだった。 これからやっと幸せになれると思っていたのに、弘行さんが死んでしまって、もう先が何も見えないのに。 僅かだったけれど、弘行さんと過ごした日々は楽しかった。 あんなに生きることが楽しい、幸せであるとは思わなかった。 弘行さんは私にもまだ幸運な未来が待っているといっていた。 だから、それを守りたいのだ、と彼は言ってくれた。 だから、私は生きようと努力した。 けれど、それはこうして叶わない夢となってしまった。 もはやどもることなく、ナイフのような鋭利さをその言葉に含ませて村越智子は私に告げる。 「松本弘行は死んだ」と。 これほどまでに私の事を思ってくれた彼の最後の願いを私は聞くこともできなかったのだ。 「弘行さん…ごめんなさい。」 涙が流れる血液の勢いなど比にならないほどに流れ出る。 余裕を見せていた理沙が泣く声が狭い部屋に響き、何かを拾い上げる音がした。 「お前のせいで!お兄ちゃんがッ!」 「どんなときも私を大切にしてくれた、お兄ちゃんがッ!」 「それから、お兄ちゃんの名前を呼ぶな!お兄ちゃんをまだ穢すつもりなのか!雌猫がッ!」 理沙はそう言いながら私を四回ほど部屋にあった角材で殴った。 別のところからも出血を感じる。その分だけ、死期が近くなることだろう。 痛みは確かに感覚として感じるが、弘行さんを見殺しにした私には丁度良い罰だったのかもしれない。 けれど、弘行さんとの事はたとえ死んだとしても絶対に忘れたくない。 それに、弘行さんに迷惑はかけてしまったけれど、謝るよりも感謝したいと思う。 266 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 08 42 ID Fe03hxK+ 「もう、四分の一位、血液が出ちゃったみたいだよ。」 そういう理沙の声が聞こえる。 「……。」 何も反応しない私に怒りを感じたのか、理沙は罵声を浴びせながら、先程の角材で後頭部を殴ってきた。 精一杯、冷静に振舞おうとしているが、結局は流れ出る血液と同じように湧き上がり続ける恐怖は拭い去ることができない。 現に私はこれまでに無いくらい、震えている。 さっきから震え続けていることを罵倒する二人の声も聞こえてくる。 確かに怖いけれど、信じていれば、きっとどこかで弘行さんと会えるかもしれない。 そして、もっと、幸せな出会い方で―。 後頭部を殴られたショックか、血液が喪失していく為か薄れゆく意識の中でそんな事を願った。 「あーあ、もう、三分の一、血液が出ちゃったみたいだよ。」 理沙は言った。 すると、今まで震えて恐怖に襲われていることが誰の目にも明らかであった彼女の動きが止まった。 生暖かい大量の液体をゆっくりと流し続けていた智子は液体の入った容器をその場に置き、心臓の鼓動を確かめる。 確かに止まった事を確認すると、理沙に目で合図する。 智子は殺害の原因がわかりにくくできたことに満足した表情で、いろいろな殺害の器具を片付け始める。 理沙も片づけを始める。 兄が死んだことを受けて、とめどなく流れ出る涙を押し止めることすらせずに。 たいした量も無い器具を二人で片付けるのはあっという間だった。 これで全てが終わりであったはずだった。 しかし、理沙は不愉快であった。 精神的苦痛を与えて死なせたはずの時雨が殺害した自分よりはるかに落ち着いており、あまつさえどこか笑みを浮かべている表情が気に障ったのだ。 理沙はその部屋にあった刃渡りが長く肉厚のナイフを何度も何度も事切れた時雨の骸に突き立てた。 「あはははは、何でお前は笑っているんだ。苦しんで死んだはずなのに!あの世でお兄ちゃんに会えないようにずたずたにしてやるッ!」 「私、お兄ちゃんが好きだったのに!こんな雌猫ごときに掠め取られて!許せない!許せない!」 智子はそれにすぐに気がついた。と、同時に計画を何度となく狂わせた理沙への怒りが抑えられなくなっていた。 第一、智子にとって復讐はまだすんだわけではなかったのだ。 自分の母を殺した本命が残っているのに、時間稼ぎの工作を台無しにされてしまったのだ。 そこで、智子は咄嗟に理沙に罪を全て着せることにした。 智子は後ろから理沙の腕を掴むと、そのナイフを理沙の心の臓に向かって突き立てた。 多量の血が渋き、地下室の薄汚れた壁にかかる。 智子は返り血を浴びて朱に染まった上着を脱ぎ、殺害器具の入っていた大袋の中に一緒に入れる。 そして、村越智子は北方邸を後にした。 267 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 10 03 ID Fe03hxK+ 夕方の茜色の光が物悲しく感じられる。 晩秋の日光は照っている時間も短く、光の強さも随分弱い。 冬の到来を告げているかのようにどこか陰鬱である。 動かない足の代わりに車輪を繰って、庭の池沿いにぐるりと回って、家の庭に100年近く生えているという大銀杏の前に来る。 ひゅう、ひゅう、と乾いた音を立てた風が時折吹いて、枝を叩く。 そのたびに、はらり、はらり、としわだらけの葉を散らしていく。 丁度、こんな陽気の日に私は病院を退院した。 指を折って、それから過ぎた年月を数える。 そうか、もう、あれから8年も経ったのか―。 私が、そして彼が殺されたはずのあの日―。 幸運にも、出入りしているお手伝いさんがやってきた。 そして、開け放たれた地下室の扉を不審に思い、中に入ってみたら私が倒れているのを発見したという。 その段階で私は、死亡していたわけではなく、仮死状態にあったという。 お手伝いさんは病院へ通報し、すぐさま応急処置が取られたので、私は一命を取りとめた。 ただ、心臓が止まっていた時間が少し長かったのが理由か、後頭部や頭を殴られた事が原因か、 良くはわからないが両足を自分で動かすことができなくなってしまった。 だから、それ以来、私はこうして移動するにも車椅子に頼らざるを得なかったのだ。 私が目を覚ました日、最も気になったのは自分の体がどうとか理沙や智子がどうなったか、ということではなく、弘行さんがどうなったか、というただ一点だった。 私は看護婦さんに何度となく、弘行さんの状況を尋ねてみたが、なかなか教えてくれなかった。 すぐに彼が生きていることはわかったが、私と同じ病院に搬送されたのにも関わらず、彼の居場所を掴むことができなかった。 入院してから、数週間をただ弘行さんの事ばかりを考えながら、けれども無為に過ごし続けたが、全快した父がある日、私の元に見舞いに来た。 その時に私は父から様々な話を聞き、話し合った。 268 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 11 43 ID Fe03hxK+ 村越智子という子は私の母と結婚する前に、付き合っていた女性とできた子供であること。 その智子が母の優衣と松本理沙を殺害し、警官に逮捕されそうになった際に、理沙から奪った薬で二名を殺害したこと。 そして、その智子の母親は私の母である優衣に殺されたこと。 それを理由として、理沙の私に対する憎悪を利用して、今回の復讐劇を成功させたこと。 母の私への虐待とその事とをずっと悔やみ続けていた、ということ。 最後に、父がもうそう長くないこととこれからの事について―。 父は私と弘行さんの仲を認め、これからの事について、いろいろと私に忠告をした。 それは今思い出せば、さながら、遺言のような感じであった。 一つ一つ話を聞いていくうちに父が私に憎悪や負の感情など決して抱いていない事がわかった。 いつだったか、弘行さんが私に父のとの関係についていろいろと話をされたことがあった。 内心、詳細を弘行さんが知らないのだから、という気持ちもあり素直に取ることができなかったが、この時にようやく父と和解できたような気がする。 そして、父はその年の末に急死してしまった。 一通り、話しておくべきことを私に話した後、父は弘行さんの居場所をこっそりと教えてくれた。 すぐに、私は車椅子を動かして、弘行さんの元へと向かった。 彼はその時異常なまでに消沈し、さながら魂の抜け殻のようであった。 表情は無表情でもはやその変え方すら忘れ去ってしまったかのような感じであった。 そう、私の弘行さんに会う前とあまりにもそっくりな状況だった。 彼は私の姿を確認すると、一瞬だけ頬を緩ませてくれたが、すぐに車椅子の存在に気がつき、再び申し訳なさそうな表情に戻ってしまった。 それから、何度となく私は彼の元を訪れた。 けれども、なかなか前の彼のように戻ってくれなかった。 それから二ヶ月程度で私たちは退院し、何事も無かったかのように、学生生活を送ることになった。 いじめは惨劇の壮絶さを車椅子に乗った私と性格が変わってしまったように見えた弘行さんとを目の当たりにしてすぐさま消えうせてしまった。 私は彼を家まで迎えに行き、私の作ったお弁当を一緒に食べ、とりとめもない話をする。 それはいたって普通の、今までどおりの生活に戻ったはずだった。 私は積極的にあれやこれやと弘行さんの気が晴れるように努力したが、彼の陰影は消えることが無かった。 そして、ついにある日、自殺未遂を起こした。 幸いにも実際に決行する前に私が発見し、思いとどまらせることができた。 その時の彼はあのまさに私が自殺をしようとした際にあまりにもそっくりであったのに驚きを隠せなかった。 おそらく、優しすぎる彼のことであろう、理沙を死なせてしまい、守ろうとした私まで半身不随になってしまったのに、 自分が五体満足に生き残ってしまった事に罪悪感を感じているのかもしれない。 けれど、そんなことは露ほども気づかないふりを私はした。 その後の必死の説得と時間の経過によって、弘行さんは学年が替わるころには立ち直ってくれた。 269 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 12 31 ID Fe03hxK+ 私と彼は数年で年齢的に結婚が認められる年になり、すぐに結婚した。 私にとって、ようやく訪れた本当の意味での幸せだった。 それから大学へ進学し、私は車椅子ゆえに苦労を強いられたが、ずっと彼に助けられ続けた。 そして、弘行さんは卒業後、今は専務が社長となっている父の会社に入社し、我武者羅に働いている。 彼は車椅子の私を見ると時にどこか悲しそうな申し訳なさそうな表情をしたが、そんな時は彼を強く抱きしめてあげる。 あなたは悪くないのだと。 私の傍にいるという約束をこれほどまでにきちんと守ってくれているではないか、と。 私は彼とずっと一緒に居て、幸せを享受する為ならば、自分の両足の犠牲、程度厭わない。 そのためならば、私は何だってしただろう。 ずっと、写真の中の彼だけを支えにしていた昔から考えれば、その程度のものを代償にして、得ることができた事は、ありがたく感じるくらいだ。 会社に入社してから何度か、弘行さんは自分が生き残ってしまったことは間違いだと漏らしたことがある。 学生時代とかわらずに愉快にも冗談を言って私を楽しませてくれる彼の豹変を私は心配した。 おそらく、他の社員から何か言われたのかもしれない。 私の目の前にそんな事をするものが居れば、容赦なく矢を射掛けるくらいはしただろう。 それはさておき、数年前に心配した彼の本心をその発言から窺い知る事ができた。 弘行さんはいまだ、あのことを悔いているのだろう。 しかし、彼の言うように生き残ったことが罪だとすれば、私だって生き残った人間なのだ。 私とて罪であろう。 特別に悔恨の念など抱くことは無いが、優しいが上にも優しい弘行さんの見方によれば、私は理沙を殺したとも考える事ができる。そう、考えるならば、私とて同罪である。寧ろ、私のほうが罪は重いかもしれない。 だから、弘行さんはそんな事を心配することは無いのだ。 傍に居て幸せをくれるあなたを私は守ってあげるから―。 そして、もしそれすらも辛いならば、もう何も考えることは無い。 私と堕ちて行けばよいのだ。 堕ちたままでいいのだ。彼が苦しむ姿を見るくらいなら、堕ちたままでよい。 それによって、私は弘行さんと結ばれることができたのだから。 270 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/10/05(金) 02 13 29 ID Fe03hxK+ あの真紅の装丁の本の結末は、ヒロインが失明し、想い人と結ばれる事なく悲劇的に終わるのだ。 しかし、想い人である、王子はヒロインの失明を聞いて、自分を責め、最終的には自殺をする。 ヒロインもそれに従って、自殺をするのだ。 けれども、私は足の自由と罪悪感という代償と引き換えに、想い人の弘行さんと結ばれたのだ。 きっと、王子とヒロインが結ばれたとすれば話の結末も違ったものだろう。 私もお話の中のヒロインも自殺という思い切った方法を取ることができるのだ。 その力を精一杯使って、幸せを享受することだってできる。 門が開く音が聞こえた。 今日は私の誕生日なので、弘行さんは早く帰ってくるといっていた。 門のほうへと車椅子を動かしていく。 手にケーキを持ち、スーツに身を包み、優しい表情をこちらに向けてくれる、世界でたった一人愛する人がそこにはいた。 「ふふ、お帰りなさい、弘行さん。」 「ただいま、時雨。」
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/1412.html
220 :ぽけもん 黒 19話 ◆/JZvv6pDUV8b :2009/12/07(月) 02 10 45 ID RT3H1gnW その後、意識の無い香草さんと、歩くことの出来ないポポをやどりさんに手伝ってもらって、練習場内の医務室に運んだ。 ポポの足は粉砕骨折、香草さんは内臓損傷という重症だった。 医療が発達していても、重度の骨折ともなるとさすがに一日は絶対安静、三日はバトルを禁じられた。今日は集中療養室で一人でお泊りだ。 面会禁止でよかった。もし面会が可能だったりしたら、ポポはごねて僕についてこようとするか僕を帰れないようにしたに違いない。 治療時間としては香草さんのほうが短く、香草さんは数時間で意識を取り戻した。 こちらは今日一日は安静を推奨されたが、特に行動の制限は無い。 状況が理解できなかったのだろうか、香草さんは目を覚ますなり暴れだした。 僕とやどりさんと看護師さんの三人がかりで抑え、香草さんの両手両足を拘束具で固定し、ベッドに据えた。 両手両足の拘束を解こうともがいていたが、しばらくするとおとなしくなった。 蔦も葉も出さなかったことから考えるに、ただパニックになっていただけで、本気で拘束具を引きちぎろうとしていたわけではないらしい。 固定された香草さんは、青ざめた顔をして震えている。この震えは、寒さによるものではなさそうだ。 「私が負けたなんて……そんな……そんな……」 そんな感じのことを、うわごとのようにブツブツと呟いている。 彼女のプライドの高さからいったら無理も無い。 おそらく、同年代との戦いでは今まで負けたことなど無かったに違いない。 それなのに、二対一とはいえ、場外などのルール上の問題じゃなくて、文句なしの敗北を喫してしまったのだ、彼女のショックは計り知れない。 逆鱗に触れる結果になりかねないとも思ったが、僕は彼女に慰めの言葉をかける。 「げ、元気出してよ香草さん。香草さんもすごかったよ!」 突如、拘束された香草さんの手がピクリと動いた。手を伸ばそうとしたようだけど、拘束のせいで持ち上がらなかった。 びっくりした。てっきり首でも絞められるかと思った。 「……ぁ」 香草さんの口から、呻き声のような、涙声のようなものが零れ落ちる。 「ごーるどぉ」 名前を呼ばれた。 いつもの香草さんからは想像もつかない、不安げな、か弱い声で。 胸が締め付けられるのを感じる。物理的にじゃなく。 何だろう、香草さんがとても可愛く見える。 こ、これがギャップ萌えというやつか! ……って僕は何を考えているんだ! 「な、何?」 「お願い……お願いします。もう二度と負けたりしないから……」 呆気に取られて言葉も出ない。一体何の話だ? 「見捨てないでぇ。いなくならないでぇ。ごーるど、ごーるどぉ」 子猫の鳴き声のような、か細く、聞くものに庇護欲を喚起させる声。 「な、何を言ってるのさ。そもそも、負けたら契約解除だなんて一言も言ってないじゃないか」 「いや、いやぁ。ごーるどぉ」 彼女はついに泣き出してしまった。 まともな会話にならない。 彼女の拘束された手は、何かを掴もうとするように、必死に伸ばされていた。 白く、細く、怪力を発揮するとはとても思えない繊細で綺麗な手を。 僕が掴むことはなかった。 221 :ぽけもん 黒 19話 ◆/JZvv6pDUV8b :2009/12/07(月) 02 11 46 ID RT3H1gnW 「……ごーるど?」 不意に彼女の瞳孔がすっと細くなるのが見えた。 同時に、彼女の両の袖から、数十の、ボロボロの蔦が這い出し、鎌首をもたげる。 それはやどりさんが念力で押さえつけるよりも早く、僕の手首に伸びた。 「いや、いや。行かないで。行かないでよぉ」 駄々をこねる子供のように僕に呼びかける。 僕の手を掴む蔦が、僕の手首をギチギチと絞めた。 やどりさんの念力によって、蔦を含む彼女の全身が下方向に強く押し付けられる。 しかし、僕の手首に巻きつけられた、一本の蔦だけはそれに抗っていた。 「ごーるど、ごーるど、ごぉるど、ごぉるどぉ」 最初は甘く、徐々に激しく、彼女は僕の名を呼び続ける。 蔦は、もはや万力のような力で僕の手首をギリギリと締め付けていた。 あ、あ、あ。 「う、うわああああああああああ」 病室中に、僕の悲鳴が溢れかえる。 怖かった。腕の痛みよりなりより、香草さんが、まるで。 ――まるで…… 看護師が慌てて駆け寄り、香草さんの細い、白い腕を剥き出して、何かを注射した。 すうっと、まるで水が引いていくように、滑らかに、急激に僕の手首を掴む力は引いていった。 「いや、こんな、ごぉるど、私、わたし……」 彼女の言葉からも急激に力が抜けていく。 下がる瞼を必死に止めながら、彼女は何か言葉を作ろうと口をモゴモゴと動かしていたが、それも長くはもたず、すぐに沈黙した。 僕は病室の白い床に尻餅をついた。 彼女の蔦につかまれていた手首には、真っ赤な蚯蚓腫れが浮かび上がっていた。 そのとき初めて、僕は自分が全力疾走をした後のような荒い呼吸をしていることに気づいた。 「……ごめんね、おかしなことに巻き込んじゃって」 「……いい」 練習場からポケモンセンターに戻る帰り道。 さすが都会というだけあって、夜も更けつつあるこの時間でも街頭やネオン、建造物からの光で街は明るく、人々によって騒がしい。 賑やかな街と対照的に、僕はとてもいたたまれない気持ちに包まれていた。 一体何が香草さんをあのようになるまで追い詰めるのだろうか。 先ほどのことが思い出されて、少し震えた。 やどりさんからすればいい災難だろうな。 自分に落ち度があるわけでもないのに、こんなよく分からないことに巻き込まれて。 旅をしてきた僕ですらよく分かっていないんだ、今日会ったばかりのやどりさんなんてさっぱりだろう。 「今日はもう遅いし、とりあえずポケモンセンターに戻ろうか。きっと、ポケモンセンターでもそのくらいの融通は利くよ」 陰鬱な気持ちを吹き飛ばすように、努めて明るく言った。 きっと今回の騒動をみて、やどりさんはパートナーになってくれる気なんてなくしたはずだ。 だからポケモンセンター本来の目的からすれば、パートナーでもなく、パートナーになることも無いやどりさんが宿泊するのは無理なんだろうけど、一日くらいなんとかなる……はずだ。 やどりさんは黙って僕を見つめている。どうしたのだろうか。やっぱり、僕と同室なんて嫌なのだろうか。 となると、他に宿をとってあげるしかないか。幸いにもここは都会、宿探しには困らないだろう。バトルで一度も負けてないから資金も一応はある。……ホントは店めぐりをして道具を買い込みたかったんだけども。 「どうしたの?」 「私……と……あなた……は……パート……ナー。だから……ポケモンセンター……に……泊まるのは……当然」 彼女は相変わらずの無表情でそう答える。僕は一瞬呆気に取られた。 「え、いいの?」 「どう……して? ……ダメ……なの?」 「そ、そんなこと無いよ! ただ、今日の騒動で、僕とパートナーになるのが嫌になっちゃったんじゃないかって思って」 「そんなこと……ない」 「そうなんだ! それならよかった」 部屋に戻り、手早く寝支度を終えた僕はベッドに潜る。 やどりさんが照明を消したのだろう、すぐに部屋は暗闇に包まれた。 人の動く気配がする。やどりさんがベッドに向かう気配だ。 そう思っていたのに、その気配は僕のほうに近付き、僕の寝ているベッドの前で止まった。 222 :ぽけもん 黒 19話 ◆/JZvv6pDUV8b :2009/12/07(月) 02 12 11 ID RT3H1gnW 「どうしたのやどりさん」 僕がそう聞くと、彼女は無言でもそもそと僕のベッドにもぐりこもうとする。 「や、やどりさん、何やってるの?」 「何……って……寝ようと……」 「な、何で僕のベッドで寝ようとしてるのさ!」 「何で……って……」 外の明かりに照らされて、彼女の表情が見えた。 いつものどこか間の抜けた表情だけど、今の彼女の感情ははっきり分かる。彼女は明らかに不思議そうな顔をしていた。 「私……と……あなた……は……パート……ナー。だから……一緒……に……寝るのは……当然……」 「当然じゃないよ!」 思わず声が大きくなる。一体彼女はどういう思考回路をしてるんだ。 いや、もしかしてそれは当然のことなのかな。ポポだっていつも僕と一緒に寝たがるし……って違う! 当然なんかじゃない! 何だろうこれは。やどりさんの催眠術にでもかかってるんだろうか。 僕は邪念を振り払うためにやどりさんに背を向け、壁のほうを向く。 しかし、壁のほうを向くと今度は途端に香草さんの姿が白い壁に描かきだされる。 彼女のあの様子、とても正気には見えなかった。 彼女の自信、プライド。 そういったものが打ち砕かれた衝撃は僕が思うよりもはるかに大きかったようだ。 これから、彼女は一体どうなってしまうんだろう。 そして、彼女に対して僕は一体どうしたらいいのだろう。 次第に、思考は袋小路へと陥っていく。 そのまま、いつのまにか僕は眠りに落ちていた。 「……いい……の?」 「うん。約束だしね」 翌日。僕とやどりさんは役所にいた。 もちろん、やどりさんと正式に契約を結ぶためだ。 本当は香草さんに確認を取ってからにしたかった。 練習場の医務室を訪れたのだが、彼女は未だ深い眠りの中だった。 酷い怪我をした上に、精神も酷く磨耗したのだから当然といえば当然なのだけど。 今回、香草さんが受けたショックの大きさを再認識させられる。 ちなみにポポは骨折が思った以上に酷かったようで、相変わらず面会謝絶だった。といっても、治療は伸びても半日程度だそうだ。科学の進歩ってすげー。 正直、やどりさんと契約を結ぶのもどこか後ろめたい。 トレーナーと契約を結ぶパートナー、双方の同意があるのだから何も問題は無い。 とはいえ、あれほど強情に自分以外のパートナーを認めなかった香草さんを無視する形になってしまうのには、抵抗を覚えてしまう。 それに……僕が今新たに契約を結ぶということは、新たに契約を結ぶ相手を騙すことと同じだ。 やどりさんの問いかけに努めて明るい口調で答えたのも、そういった自分の負の感情を誤魔化したかったからだ。 卑怯者。 香草さんに、そう言われた気がした。 「これで僕とやどりさんは正式にパートナーだ。これからよろしくね」 「……こちら……こそ」 契約の手続きそのものは何の滞りも無く終わった。 やどりさんは元々住民登録してあったから、本当に何の手間も時間もかからなかった。 時間がかからなすぎて、香草さんやポポの様子を再び見に行くにも早すぎる。 そういえば、やどりさんが新たにパーティーに加わることになったんだ、ささやかでも歓迎式なんか開いてあげたい。その準備に時間を使ってもいいな。 ……でもきっと香草さんが許さないだろうから無理か。 「僕は今からジムの下見に行ってくるよ」 僕は結局、自分の目的を優先させることにした。 「……私も……いく」 「そう? じゃあ一緒に行こうか」 やどりさんもついてきてくれるようだ。 相変わらず、感情は読み取りにくいけど、少なくとも不機嫌そうではなさそうで安心した。 ジムに向かっている最中。意外なことに、やどりさんは本当に私とパートナーになってよかったのかと尋ねてきた。 あんな横暴な振る舞いをされても、それでも香草さんのことを気遣っているのか。 ……いや、単に僕が自分勝手なだけなのかもしれない。 「今回のことで香草さんもチームプレーの重要性がわかったと思う。きっと分かってくれるはずさ」 223 :ぽけもん 黒 19話 ◆/JZvv6pDUV8b :2009/12/07(月) 02 12 46 ID RT3H1gnW そう、今回の敗北が、彼女にとってよい作用を持たせばいいんだけど。 自己すら見失い、狂乱状態にあった昨晩の彼女。 頭をよぎった昨晩の情景をすぐにかき消す。 あれはただ、強いショックを受け止め切れなかっただけさ。 時間がたち、落ち着けば、上手く消化して、自分の身の一部にできる。 そう、信じたい。 若干苦い感情を覚えながらもそう考えていると、やどりさんは、 「……そうじゃ……なくて」 となにやらモニョモニョ言っていた。 僕はまた何か意図を図り間違えたのかな。 しかしジムに着いたので会話は一旦中断された。 僕たちは正面玄関に近付くことなく、ジムの脇に回る。 今はジム戦を挑みに来たわけではない。偵察しにきただけだからね。 このジムは主にノーマルタイプのポケモンを使うということは分かっているけど、上手いこと他のトレーナーが戦っていてくれていればもっと詳しいことが分かる。 ノーマルタイプは格闘系の技が弱点だけど、ジムリーダーともなれば対策がしてないとは思えない。 香草さんが格闘タイプだから僕たちは有利か……あ、いや、香草さんは草タイプだった。いつもの印象でつい。 予想通り、ジムの側面には少し高い位置にだけど大きな窓がいくつも取り付けられていて、中の様子を伺うことはそれほど難しくなさそうだった。 「やどりさん、念力で僕を持ち上げることってできる?」 やどりさんがいなければ他の手段を講じていただろうけど、折角やどりさんがいるんだから頼ってみる。 「……簡……単」 「それじゃ、申し訳ないんだけど、あの窓から中がのぞけるように僕を持ち上げてくれないかな? それで、僕が左手を開いたら僕を降ろして欲しい」 「……分かっ……た」 覗いていることがばれるとよくないだろうから、見つかったときの対策をちゃんと考えておく。 やどりさんは両腕を前に差し出すと、そのままトテトテと歩いて、僕に抱きついた。 「や、やどりさん?」 「……ちゃん……と……捕まっ……て」 言われるがままに抱き返す。すると僕たちの体がするすると浮き上がり始めた。 「じ、自分の体も持ち上げられるの!?」 まさか、念力でここまで出来るなんて。 つまりやどりさんは空を飛ぶことが出来るということだ。 いや、少しこれは大げさかな。 でも宙に浮くことが出来るというのは間違いない。 それくらい、やどりさんの力は強いものらしい。 やどりさんは僕を見て、僅かにだけど微笑んだ。 いつも表情が分かりにくいやどりさんにしては珍しいことだ。 窓の辺りまで浮上した僕は窓から中を覗き込む。 しかしバトルはやっていなかった。 まあそこまで都合よくはいかないよね。 自然物を使っていた今までのジムとはうって変わって、床面は人工的で無機質な素材で出来ている。遮蔽も無く、酷く無機質な造りだ。構造だけ見れば。 しかし床の色がピンク色のせいでまったく無機質さを感じられない。 というか悪趣味以外の何物でもない。 ジムリーダーは一体何を考えているんだ。 遮蔽物無しか……今までのジムよりも戦いやすいように思える。 でも、きっとこれが相手にとって一番有利な地形のはずだから、油断は出来ない。 「やどりさん、ありがとう。降ろして」 僕がそういうと、今度はゆるゆると降りていき、地面についた。 やどりさんはいつものぼんやりとした表情で僕を見ている。 僕に抱きついたまま、離れる様子は無い。 「……あの、やどりさん?」 「……何?」 「そろそろ離してくれないかな」 「…………やだ」 やだと言われるとは思わなかった。 でもずっと抱きついているわけにもいかないので、やどりさんを押して離れる。 やどりさんは相変わらずの表情だ。 本当に、ポポや香草さんとは違った意味で、やどりさんは何を考えているのか分からない。 そもそも、僕を浮かすのにわざわざ抱きつく必要はあったのかな。 まずそこを疑問に思うべきだった。 224 :ぽけもん 黒 19話 ◆/JZvv6pDUV8b :2009/12/07(月) 02 13 12 ID RT3H1gnW 次に僕たちは古賀根百貨店に向かうことにした。 古賀根市に来たからには是非一度は寄っておきたかった場所だ。 道中の連戦連勝で大分お金も溜まっているし、思う存分道具が買える。 店に入った僕は、圧倒されて息を呑む。 久々に来たけど、やっぱりすごい品揃えだ。 あ、これ新製品だ。便利そうだなー。欲しいなあ。でも今の手持ちの道具と機能が被るよなー。どうしようか…… お、こっちは技マシンのコーナーだ。旅に出るまでは実感が湧かなかったけど、こうしてみると魅力的だよなー。 ええっ、こんなものまで売っていたっけ? う、でも高いなあ……これを買うと他の道具が……いや、でも…… 不意にやどりさんに服をつかまれて、ようやく正気に返った。 しまった、つい商品選びに夢中になり過ぎてしまった。やどりさんを意識するのをすっかり忘れてしまっていた。 彼女を見ると、いつもの表情で僕を見ていた。 お……怒ってる? 表情の変化が無いから感情が分かり辛い。というか少し、怖い。 「ごめん、つい夢中になっちゃって」 弁明するように僕は言う。 そういえば、この旅の……というか香草さんのせいで、僕は謝り癖のようなものがついてしまったように思う。 僕は昔から自己主張が強いタイプではなかったけれど、何かあったらとりあえず謝って場を濁すようなタイプの人間でもなかったと思うんだけどなあ。 ふと、そんなことを思う。 「……人、多い。はぐ……れそう」 多いといっても一緒にいる人を見失うほど混んでいる訳ではない。 でも僕が上の空であっちへふらふらこっちへふらふらしていたらはぐれても何の不思議も無い。 まったく、僕には気遣いが足りていない。 あと、やどりさんが、はぐ、で言葉を区切るから、てっきりまた抱きつかれるかと思ったのはスルーしておこう。 「そうだね。手、繋いでもいい?」 「……うん」 僕が差し出した手にやどりさんが手――正確には着ぐるみ――を重ねた。 滑らかで柔らかい手触りが、僕の手に伝わってきた。 「……あ」 とある棚の前でやどりさんが小さな声を上げた。 今までずっと無言だったから、何事だろうとやどりさんを見たら、彼女は誤魔化すようにすぐに――といっても、彼女の動きだからゆっくりなんだけど――視線を僕に向けてきた。 でも、一瞬だけどやどりさんは確かに棚の陳列物を見ていた気がする。 「ラピスアクアかー」 その棚にあったのは、淡い青色を湛えた、透明度の高い石だった。 この石――ラピスアクア、直訳すれば水の石――には世界各地で水の力が宿っているという言い伝えがあり、別名水の結晶とも呼ばれている石だ。 確かに、その澄んだ青は見るものに不思議な力を感じさせる。 持つものには水の力が与えられるといった話や、水の加護を得る、なんて話がいくつもあるのも納得だ。 特に水を操るポケモンと関わりが深く、全員がこの石を持っている種族があるほどだ。 また、綺麗な見た目から宝石としての価値もある。 「そういえば、やどりさんはラピスアクア持っているの?」 やどりさんは水タイプだ。ラピスアクアを持っていても何の不思議も無い。 しかしやどりさんはゆっくりと首を横に振った。 225 :ぽけもん 黒 19話 ◆/JZvv6pDUV8b :2009/12/07(月) 02 13 48 ID RT3H1gnW そうなのか。最近はアクセサリーとして持つ人も増えていると聞くけど。 実際、その棚に並んでいるものも、原石はごく一部で、殆どはアクセサリーとして加工されているものだ。 そして何よりも……高い。 なんだこれは。 なんだこれは! 少し大げさに驚いてみた。 しかし高いことは事実だ。 具体的に言うと、未加工の小さな原石一つで傷薬が十個は買える。 一番高い、凝ったテザインのティアラに至っては、傷薬が一、十、百、千、……傷薬の限界を感じる。 とにかく、ものすごく高いってことだ。 でもやどりさんがパーティー加入したのに、特に祝って上げることも出来ない。ならば、プレゼントの一つくらいはしたほうがいいんじゃないだろうか…… 「あの……ゴールド?」 「こ、このネックレスなんかやどりさんに似合いそうだよね!」 僕は震える指で陳列棚に並べられている商品の一つを指差した。 値段はティアラに比べれば体当たりみたいなものだけど、僕の財布には破壊光線だ。 自分でも頭が少しおかしくなっていることは分かってる。 当のやどりさんは少し首を傾げている。 こ、この反応は……何だ? 「……そう……かな」 ようやく口を開いた。よく分からないけど、多分、まんざらでもなさそうだ。よし! 「じゃあやどりさんにプレゼントするよ。パーティー入隊祝いでさ」 「……いい……の?」 やどりさんの眼がネックレス……いや、値札に向いた。 まるで僕の心を見透かされているようだ。 ……見透かされてないよね? 「うん! せっかく仲間になったっていうのに、皆あんまり歓迎してくれそうにないし……あ、それはやどりさんが悪いんじゃなくて、誰に対してもそうだっていうか……」 あたふたと弁明をする僕を見て、やどりさんはかすかに微笑んだ。 その微笑はかすかではあるけれど、殆ど表情に変化というものがないやどりさんにとっては大きなものだ。 僕は店員さんに代金を支払うと、ネックレスをやどりさんの首につけてあげた。 「あり……がとう」 デパートからの帰り道、僕はやどりさんの何度目か分からないお礼を聞いていた。 ネックレスをプレゼントして以来、ことあるごとにありがとうと言ってくる。 喜んでもらえたのは嬉しいけど、ここまで感謝されると少し照れくさい。 「そんなに気にしなくてもいいんだよ。やどりさんもパートナーになったんだから」 何度目か分からない、その照れ隠しの言葉を返したとき、とても意外なことが起こった。 やどりさんの体が突然光に包まれたのだ。 その光の発信源は彼女自身だった。 数十秒の後、光は消え、その中からやどりさんが現れた。 進化だ。 久々に見たから驚いてしまった。 着ぐるみを着ていることもあって、変化が分かり辛いけど、確かに進化したんだよね? 半ば呆然として眺めていると、やどりさんは滑らかな動作で僕に抱きついてきた。 「ゴールド!」 初めて聞く、嬉しさが滲んだ彼女の声だった。 「や、やどりさん!?」 少し離して、彼女の顔を見る。 その顔にははにかんだような笑みが浮かんでいた。 226 :ぽけもん 黒 19話 ◆/JZvv6pDUV8b :2009/12/07(月) 02 14 45 ID RT3H1gnW 今までは変化に乏しかったけど、進化したことによって感情を出しやすくなったのかな。 「私……進化できた。ゴールドのお陰」 進化してもやどりさんはやどりさんだ。前ほどではないけど、少しのんびりとした話し方だった。 「ぼ、僕のお陰だなんて、そんな……」 ラピスアクアのような石が進化のきっかけになることもあるという。 きっとやどりさんはラピスアクアを身に着けたことで石からの特殊な波動というかなんというか、そういうものを受容して、それが進化に繋がったに違いない。 つまり進化できたのは石のお陰で……石をプレゼントしたのは僕だから、これも一応僕のお陰ということになるのかな。 「と、とにかくよかったね!」 「うん!」 やどりさんは元気に笑った。 ほどなくポケモンセンターの近くまで来た。 ふと、ポケモンセンターの前に立っている人影に気づく。 キョロキョロと落ち着きのないその影は、僕を見つけるなり、一直線に飛んできた。 「ゴールドー!」 「ポポ!」 驚いた。一日は絶対安静だといわれていたのに。 「足はもう大丈夫なの? 確か絶対安静とか言われたんだけど」 ポポを抱きとめながらそう質問する。 「平気です! 愛の力です!」 誇らしげにそう言う。 あはは、と僕は苦笑いだ。 ポポは力強く僕に抱きついていたが、はっと思い出したように僕から離れた。 「そうです、た、大変なんです!」 「何が大変なのさ」 「あの女が、チコが眼を覚ますですよ!」 その言葉に僕はゴクリと唾を飲み込んだ。 パートナーに恐怖心を抱くなんてありえない話だし、パートナーの快気を嬉しく思わないなんて間違っていることも分かっている。 でも、僕がそれを聞いて初めに抱いた感情は、やはり恐怖だった。 香草さんに会うのが怖い。 はっきりとそう思う。 「そ、それのどこが大変なのさ」 僕はやっとのことでその言葉を吐き出した。 自分でも、大変だとアピールするような声色になっているのが分かる。 「……やっぱり、ゴールドも分かってくれたんですね! チコは危ないです! ポポはゴールドに危ない目に会って欲しくないです!」 そういえば、ポポは以前から香草さんの危険性を主張し続けていたっけ。 ポポの言っていたことは……間違いではなかったのかな。 「だから、ゴールド。契約を解除しちゃえばいいんです」 「え?」 その言葉は僕にとって不意打ち気味に発せられた。 「チコと、パートナーじゃなくなればいいんです。そうすれば、ゴールドは危ない目に会わなくてすむです」 「そ、そんなこと……」 「パートナーに対する暴力。これは契約を解除する理由になるですよね?」 それは事実だ。しかし僕はそれよりも、ポポはそこまで物事を理解し、考えていることに驚いた。 「大丈夫です。ゴールドにはポポがいるです」 「私も」 彼女達の強さは織り込み済みだ。この状況で、無理に香草さんとパートナーである理由がない。 「で、でも、僕は……」 「ゴールド!」 背後から、大声量で名前を呼ばれた。 馴染みのある、その声。 ポポとやどりさんが一瞬のうちに体をこわばらせたのが分かった。 僕は、ゆっくりと、呼ばれたほうを振り返った。 「ゴールド」 僕の視線の先には、患者衣のままの香草さんがいた。
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/2552.html
54 :ふたり ◆Unk9Ig/2Aw:2012/11/04(日) 21 18 26 ID 2.2JYbKA 土曜日の4時限目。俺こと池上哲也はこの時間が大好きだ。もう少しで帰れる・・・明日は遊べる・・!そんな思いが湧き出るこの感覚が好きだからだ。 この時間は日本史。先生は中年の、サングラスをかけたおっさん。 教科書を読みあげ、板書を書くだけの授業なんて聞く意味はない。 だから俺は、日本史の時間は窓の外を見ることにしている。俺の席は窓際、そして外はいい天気。 ああ・・・早くこんな時間から解放してくれ!・・・とは言ってもまだ授業は30分ほど残っているわけだが。 ・・・っと、そうしていると横からブツブツと何やらただならぬ声が聞こえてくる。 声のする方を見ると、隣の席の少女が俯きながら呪詛のような言葉をぶつぶつと呟いている。 またか・・・。そう俺は思った。 隣に座っている少女の名前を米沢愛理という。米沢愛理はとても活発で爽やかなスポーツ美少女である。ソフトボールをやっていて、彼女は男女ともに人気がある。まあ、スポーツをやっているから、性格は明るい訳で。クラスのムードメーカー的な存在である。 ・・・が、その彼女が最近変なのだ。彼女の様子が。いつもなら授業中にも積極的に発言して、周りを盛り上げるのだが最近はそれが少ない。そしていつも下を向いてぶつぶつと呪文のようなナニカを唱えている。 なぜなんだろうか・・・?女にまだ興味のないおこちゃまな俺が女心を知ろうとしてもそれは無理だ。だから、理由はさっぱりわからない。 その声は耳を澄まさないと聞こえないくらい小さいものなので、このことは隣の席である俺しか知らない。だから、彼女の周りの友人は彼女の異変には気付いていない。 この呪詛のようなナニカを吐く時の彼女は別人格なんじゃないのかというぐらい、彼女らしくない。 前に一度、彼女がそのセリフを吐いた時俺はついつい、彼女のほうをボーっと見てしまった時があった。その視線に気づいた彼女はハッとして、笑顔を作り、 「あ、そ、その、なんでもないよ、気にしないで!」と言ってごまかした。 その時の彼女はいつもの彼女に戻っていた。そんなことがあっても米沢は度々、俺にこの声を聞かせてくる。いったい何なんだ?このときの米沢はとても威圧的で、俺はいつも恐ろしいと思う。 こんなことになった原因はナニ?そんなことを考えていたら、彼女が俺のワイシャツの袖を引っ張っていた。 俺が米沢のほうを向くと、彼女は爽やかに笑って言った。 「この後、暇かな?」 55 :ふたり ◆Unk9Ig/2Aw:2012/11/04(日) 21 19 21 ID 2.2JYbKA ・・・という訳で俺は米沢に誘われて駅ビルの喫茶店で飯を食っていた。 俺は別に腹が減っているわけじゃないから、コーヒーとサンドイッチだけをパクついていたが、米沢は特大ビーフカレーとデラックスパフェを黙々と食っていた。こんなちっちゃい体によく入るよなあ・・。こんだけ食って太らないってことは、それだけ運動しているのだろうな・・・。そんなことを考えていた。 沈黙。食事の間、今のところ俺たちの間に会話がない。 ・・・何で米沢は俺を誘ったんだろう・・・? 俺は小さくため息をついた。すると、米沢は急にカレーを食う手を止め、俺を見据える。 「どうしたの?ため息なんてついてさ。」 指先をナプキンで拭いた後、米沢は髪の毛をいじりながらそう聞いてきた。 「い、いや何でも無いよ。」と冷静に取り繕って答えた俺だが、内心冷や汗をかいている。 何と言うか、今の米沢がまとっているオーラがさっき垣間見えた黒いオーラに近いような気がしたからだ。 「『どうして米沢は俺を誘ったんだろう?』って思っているでしょう。」 オーラを和らげ上目遣いで微笑みながら聞く。運動はできるけど、160あるかないかの身長の彼女は身長178の俺にとってみれば小さな女の子だ。その米沢に何をおびえているんだろうな。 「そうだな・・・。まあそんなところかな。もしかして、金欠?奢ってほしいとか?」 奢りはしないが、雰囲気を明るくするために俺は必死に冗談めかして言う。でも、雰囲気は和みなどしなかった。 「そんなんじゃないんだ・・・。もっと真剣な話だよ。」 ・・・何か元気がない。声も弱弱しいし。こんな米沢は初めて見る。いつも快活に笑い、陽気に話しかけてくるいつもの米沢からは決して見られない一面。ある意味では、あの黒いオーラを纏った彼女と似た部分があるのかもしれない。意を決したように米沢は口を開く。 「私・・・さ、原先輩と付き合ってるの・・・。知ってる?」 「ああ、勿論。」 これは周知の事実だ。原先輩は野球部のキャプテンだ。チームのムードを良くするのが得意な選手だ。その辺は米沢と似ているし、やっているスポーツだってソフトボールと野球でほとんど同じだし、お似合いのカップルとして校内でも有名だった。 「それが、どうかしたのか?」まあ、なるべく地雷を踏まないように、聞いたつもりだった。 「あのね・・・、原先輩が浮気しているみたいなんだ。」 56 :ふたり ◆Unk9Ig/2Aw:2012/11/04(日) 21 21 12 ID 2.2JYbKA チュドーン!!!! いきなり地雷かよ!地雷原かよ!ああ、彼女少し泣きそうになってるぞ!フォローを!彼女にフォローを入れるんだ! 「あ、あ、そのごめん。」 フォローになってねえええ!謝ってどうするよ!? でも、俺はこんなときどんな接し方をすればいいのか分からない。映画に出てくるカッコいい男とかなら、黙って彼女の話を聞いて最後に深い言葉を残すのだろうが、俺には無理だ。女心をつかむような素敵発言は俺には無理なんだ!! 「いいんだ。そんなに謝らなくても。最近知ったわけじゃないし。結構前から知っていたよ。」 なんか逆に俺がフォローされてる気がするぞ・・。何故か無性にのどが渇く。ああくそ、アイスコーヒーにしておけばがぶ飲みできたのに。俺は少し間をおいてからしゃべりかけた。 「その・・・結構前って、いつから?」 彼女は少し考えているそぶりを見せた。はて・・?何で考えるんだろう。いつから知っていたかなんてすぐに分かるはずなのに。意外とそういうことにはルーズなのかな? 「大体、2カ月ぐらい前かな・・・。」 2カ月?・・・おかしいな。じゃあ彼女の様子がおかしかったのって、先輩の浮気のことについてじゃないのか?彼女の様子がおかしくなったのは3カ月以上前。いや、もしかするともっと長いこと前かもしれない。時期が一致しないな・・・。なんでだろう? 「私、どうすればいい?原先輩にどうしたらいいと思う?」 すがるような眼で俺に尋ねてくる。どうしよう・・・。下手なこと言えないぞ・・・。もし適当なこと言ったら、彼女も原先輩も傷つけることになってしまうかもしれないんだよなあ・・・。どうする俺!? なけなしの恋愛知識や俺の偏見に満ちた恋愛観から絞り出した答えがこれだった。 「一回、原先輩と直接向かい合って話せばいいと思うよ。嘘偽りなく本音トークをすれば、米沢の誤解ならそれを解くこともできるじゃん。何も原先輩が浮気してると決まったわけじゃないんだろ?それならば、本音トークをするべきだ。」 ・・・なんとも無難な、悪く言えば責任丸投げの発言。要は、この話に関しては2人の問題だから俺を巻き込まないでくれ!と言ってるようなものだ。けど、俺にはそれでいい。原先輩は仮にも野球部のキャプテンだ。ここで「別れるべきだよ。」って言って、本当に2人が別れて、その原因が俺だとばれたら報復行動を起こすかもしれない・・・。そうなれば非力な俺は十中八九負ける。・・・面倒事はごめんだ。 57 :ふたり ◆Unk9Ig/2Aw:2012/11/04(日) 21 22 28 ID 2.2JYbKA 「ねえ、池上。あんたはそれで・・・いいの?」 と米沢は顔を下に向け、髪をしきりにいじりながら聞く。 ・・・はて?この質問の意図は何だろう?別に米沢が原先輩の浮気について本当かどうか話し合うことによって俺に不都合が生じるわけじゃない。いや、むしろ其れによって米沢が原先輩と仲直りしたら、それはそれで俺は祝福すべきことだし、友人が元気を出してくれたら俺としては嬉しい。 ・・・ほら、何にもおかしくない。何を言ってるんだろう、米沢ってやつは。 「いいに決まってるじゃないか。今からでも遅くないさ。原先輩だって、本当に浮気をしているんなら罪悪感を少しは持っているはずだよ。もし持っていなかったら別れればいい。とにかく、米沢の幸せは(友人である)俺にとっては嬉しいことだよ。」 彼女は驚いたような顔で俺を見ている。顔真っ赤だよ。 ・・・なんか、いつもの爽やかなボーイッシュ美少女の彼女を見すぎているせいか、米沢が女の子らしい顔をするとそのギャップが俺の心をピンポイントについてくる。要は可愛い。原先輩も、こんなに可愛い彼女がいるのに浮気をするとは贅沢な人だなあ。 そんなことを思っていると、何か恐ろしいノイズが耳に入ってくる。恐る恐る彼女のほうを見ると、彼女は俯いたまま、やはり呪詛のような独り言をつぶやいている。 ・・・ああ、なんでそうなるんだ?俺は単に原先輩と米沢の恋愛事情にアドバイスを入れただけだぞ。決して邪魔したわけでもない。なのに、何故彼女は怒りをにじませ、呪詛のような独り言をつぶやくのだろうか。 だんだんと恐ろしくなってきた俺はさっさと帰ることにした。 「ごめん。何か俺が立ち入っちゃいけない領域に入ったから、怒ってるのかな?ごめん。ここの代金払っとくから。俺先帰るよ。」 彼女は何も言わなかった。ただ下を向き、放心しているような錯覚を受ける。 俺も何も言うまい。あとは原先輩と彼女の問題。俺は臆面もなく立ち入っちゃいけないのだ。所詮俺は部外者。さっさと帰ろう。ただ、彼女には幸せになってほしい。それだけは俺の嘘偽りのない気持ちである。
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/1999.html
253 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00 57 10 ID dWxH0GEx 街を吹き抜ける風が、宿場の窓を叩いていた。 霙はいつしか雨に変わり、夜の世界を容赦なく冷やして行く。 三階に与えられた自分の部屋で、ジャンはその日、一日の間にあったことを再び思い出していた。 光のない、淀んだ瞳を携えて、人が変わったように血を求めてきたルネ。 そして、先ほどの浴室で、こちらを誘うようにして近づいてきたリディ。 自分の周りで、何かが狂い出している。 それが何なのかはわからないが、ジャンにはそうとしか思えない。 ルネも、リディも、その行いは悪戯と言うにしてはあまりに酷い。 なにより、彼女達が自分に悪戯を仕掛けて来る理由がない。 いったい、あれは何だったのか。 考えても答えなど出るはずもない。 医者として、人の身体のことはわかっても、心の中まで覗く術など持ち合わせてはいなかった。 煌々と輝くランプの火を前に、時間だけが無情に過ぎてゆく。 窓を叩く風の音も、街を濡らす雨の音も、今のジャンの耳には届かない。 どれくらい呆けていたのだろうか。 気がつくと、既に時刻は丙夜の刻に入ろうとしていた。 外からは相変わらず雨音が響いて来ていたが、風は幾分か落ち着いたようだった。 (これ以上、考えていても仕方ないか……。 でも……明日、伯爵の家に行った時、僕はルネにどんな顔をすればいい……?) リディのことも気になるが、やはり気がかりなのはルネのことだった。 彼女は拒絶を恐れている。 それは、クロードから聞かされた話からも、ジャンは十分に理解しているつもりだった。 が、しかし、自分は今日のルネを見て、思わずその場から逃げ出してしまった。 薄暗がりの中、瞳に仄暗い闇を宿し、血を求めてこちらに迫って来る少女。 あんな姿を見せられたら、普通は怯えて当然だ。 そう、頭では納得しようとしていたが、それでもジャンにはどこか割り切れない部分もあった。 ルネに何があったのかは知らないが、彼女を拒絶したことには変わらない。 それは、彼女が最も恐れる行為。 彼女に対する裏切りであり、彼女の心に傷を残す行いに他ならない。 結局、自分がルネの話し相手になったのは、ただの偽善だったということだろうか。 自分ではルネを理解しようとしていたつもりでも、本質的な部分で、彼女に偏見の眼差し抱いていたのではあるまいか。 医者として、否、人として取り返しのつかないことをしてしまった。 そんな自責の念だけが、今のジャンを支配していた。 全ては明日、ルネに会えばわかること。 そうしなければ何も始まらず、また変わらないと知りながらも、自分の過ちが悔まれて眠れそうにない。 254 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00 57 52 ID dWxH0GEx (どうすればいい……。 僕は……どうすれば……) いっそのこと、逃げるようにしてこの街を去ってしまおうか。 元より長居は無用と考えていたのだ。 自分にとっても居心地の悪いこの街を去るには、これは絶好の機会ではないか。 時折、そんな逃げの気持ちが頭をよぎったが、それでも決断には至らなかった。 ここで逃げても何もならない。 自分の責任を放り出して逃げ出すことは、父の繰り返して来た愚行にも等しい。 あの、忌むべき父親と同じ道に堕ちることだけは、どうしても避けねばならないという気持ちがある。 逃げるか、それとも留まるか。 堂々巡りの考えに頭を支配されたまま、時間は更に過ぎて行った。 さすがにこのままでは、明日の仕事に支障をきたしかねない。 そう思い、ジャンが寝床に就こうとした時だった。 部屋の扉が、軋んだ音を立てて開いた。 ジャンが振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのある人影。 片手にランプを持って佇む、寝巻姿のリディだった。 「ジャン……。 まだ、起きてたんだ……」 「えっ……!? ああ……ちょっと、考え事をしていてね」 先刻の浴室でのことが思い出され、ジャンは思わず適当に言葉を濁す様な言い方をした。 「考え事、か……。 誰のことを考えていたの? 今の患者さん?」 「まあ、そんなところだね。 でも、リディが気にすることはないよ。 これは、僕自身の問題だから……」 言えるはずもなかった。 ルネの身体のこと、その行いのこと、どれをとっても普通の人間には受け入れ難いものがあるだろう。 それに、下手にルネのことを話して、彼女が誰かから好奇と偏見の眼差しを向けられるのも嫌だった。 例え、それが幼馴染であるリディのものだったとしてもだ。 「ねえ、ジャン……」 ランプを台の上に置き、リディがそっとジャンの側に立つ。 いつもとは違う、どこか憂いを帯びたような口調だったためか、ジャンは思わず身構えた。 「実は、少し気分が悪いの。 私のこと、ちょっと診てくれないかな?」 255 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00 58 27 ID dWxH0GEx 「気分が悪いって……大丈夫なのかい?」 「うん。 なんか、熱っぽくってさ。 最近は寒かったし、風邪でもひいたのかも……」 「そうだな。 じゃあ、ちょっと診てみるから、額を出して」 椅子から立ち上がり、ジャンはリディの額に手を当てる。 冷え切った自分の手に比べれば暖かかったが、さして高い熱が出ているとは思えない。 むしろ、至って普通なくらいの平熱だ。 「熱がある……ってわりには、そんなに熱くないね」 訝しげな顔をしつつも、ジャンはリディの額にかざした手をそっと退けた。 これで、頭痛がするなどと言い出すようであれば、薬を与えて部屋に帰せばよい。 真偽の程は定かではないが、とりあえずリディに熱はないのだ。 「たぶん、単に疲れているだけだと思うよ。 頭とか……どこか痛むって言うなら、薬を出しておくけど?」 「本当に? でも……もっと、ちゃんと診ないと、わからないんじゃない?」 医者として適切な判断を下したつもりだったが、リディは納得していないようだった。 あからさまに不満そうな表情を浮かべると、ジャンの頭に自分の手を伸ばして来た。 「冷えた手で触っても、きっとわからないでしょ? だから……ジャンのここで診て……」 そう言いながら、リディは自分の額をジャンの額に押し付ける。 口と口が触れそうになるほどに、二人の顔が近づいた。 それは身体も同じことで、ジャンは自分の胸に、リディの胸元にある柔らかいものが当たっているのを感じていた。 「ちょっ……リディ!?」 「動かないで、ジャン……。 私……熱っぽいでしょ? こうやって近づけば、ジャンだってちゃんとわかるよね?」 リディの口から漏れる息が、言葉と共にジャンの口元にかかる。 寝巻の下には何も着けていないのか、押し付けられる二つの膨らみが妙に生々しい。 甘酸っぱい息と胸に当たる確かな感触に絆されて、ジャンは一瞬だけ自分の理性が揺らぎそうになった。 が、すぐに屋敷で見たルネの顔が頭に浮かび、済んでのところで意識を戻す。 暗闇の中で光る、赤銅色の二つの瞳。 血に飢えた獣のようなルネの姿と、目の前で自分に顔を近づけるリディの姿。 二つはまったく異なるものだったが、今のジャンには、それらの姿が重なって見えた。 256 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00 59 06 ID dWxH0GEx 「何やってるんだよ、リディ!!」 自分の中に湧いてきた邪な気持ちを振り切るように、ジャンはリディの身体を引き剥がす。 その言葉に、ただ茫然と立ち尽くすリディ。 そんな彼女の姿を前に、ジャンは半ば呆れたような口調で言葉を続けた。 「いいかげんにしてくれないか……。 君、熱なんてないんだろう。 だったら、どうしてこんなことをするんだよ……」 「どうしてって……それは……」 「風呂場でのこともそうだけど……今日のことは、悪戯にしては性質が悪過ぎるよ。 毎日忙しくて、リディと話ができないのはわかっているけど……こんな時間に、こんなことしなくてもいいだろう!?」 「そんな……悪戯だなんて……。 私、そんなつもりじゃ……」 「だったら……悪いけど今は、ちょっと席を外してくれないかな? 正直、冗談を言って笑っていられるような気分じゃないんだ……」 「なら、私に相談してよ!! 私、ジャンのためなら何でもするよ!! こんな私じゃ頼りないかもしれないけど、ジャンの話だったら、どんな話でも最後まで全部聞くよ!!」 「そういうことじゃないんだよ……。 今は、ちょっと一人で考えていたんだ……」 懸命にジャンに縋るリディだったが、ジャンの表情は優れなかった。 ここでリディに話をしたところで、何も解決しないことはわかっている。 自分がリディの好意に甘えたところで、ルネを傷つけた罪が許されるわけでもない。 ベッドの傍らで立ちつくすリディを他所に、ジャンは再び机の前にある椅子に腰かけた。 そのままリディに背を向けて、両手を額の前で組んで考える。 リディが後ろで何かを言っているようだったが、ジャンはそれに答えなかった。 部屋を覆う静寂の中、外の雨音と風の音だけが聞こえて来る。 何も言ってくれなくなったジャンの背中を見つめたまま、リディはそっと近くにあったランプを取った。 「それじゃあ……私、もう行くね。 ジャンも、あまり遅くまで起きていると、身体に悪いよ……」 やはり、返事はない。 自分がジャンの気持ちを害してしまったことを悔いつつも、リディはそれ以上は何も言わず、そっと逃げるようにして部屋を出た。 257 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 00 59 38 ID dWxH0GEx 誰もいない廊下を渡り、すぐ隣の部屋の扉を開ける。 入口近くの台の上にランプを置くと、そのまま鍵も閉めず、ベッドの上で丸くなった。 夕方、浴室でジャンに近づいたのは、彼を癒してあげたいと思ったからだ。 先ほど、ジャンの部屋を訪れたのは、もっと自分のことを女として見て欲しいと思ったからだ。 だが、そんなリディの気持ちに気づくこともなく、ジャンはその全てを悪戯の一言で片づけてしまった。 リディにしてみれば、精一杯の自己表現。 そんな彼女の行いでさえ、ジャンに気持ちを伝えるには至らない。 相手はすぐ隣の部屋にいるというのに、まるで遙か遠い異国の地に行ってしまったような気がしてならなかった。 体は側にあっても、心は遠く離れている。 十年前、ジャンがリディに何も告げずに街を去った時から、二人の心の距離は縮まっていない。 (ジャン……。 どうして、気づいてくれないの……?) この時期の寒さには慣れているはずだったのに、身体の震えが止まらなかった。 外の雨と風は未だ街を冷やしていたが、リディが寒さを感じているのは、それだけが原因ではない。 (寒い……寒いよ、ジャン……) 本当は、今すぐにでもジャンの部屋に戻りたい。 戻って、この気持ちを伝えて、抱きしめて欲しい。 彼の腕で、胸で、冷えた心を暖めてもらいたい。 だが、先ほどのジャンの様子を思い出すと、とてもではないができそうになかった。 ジャンを求める気持ちよりも、拒絶を恐れる心の方が大きかった。 (ジャン……暖めてよ……。 昔みたいに……私のこと、守ってよ……) 近いのに遠い。 手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。 しかし、無理に近づけば、それは更に溝を深める結果となる。 拒絶の恐怖ともどかしさ。 その二つに身を焦がされて、リディはひたすら暗闇の中で震えていた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 258 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01 00 12 ID dWxH0GEx 翌朝は、久しぶりに太陽が顔を覗かせていた。 朝の陽ざしを額に受けて、ジャンは眠たい目を擦りながら起き上がる。 机の上に置いてある眼鏡をかけると、ぼんやりとした視界が急にはっきりした。 それと同時に、昨晩の記憶がまざまざと脳裏に浮かび上がる。 昨日の晩、自分はリディに随分と厳しいことを言ってしまった。 一人になりたかったのは事実だが、よくよく考えてみれば、あれは八つ当たりに等しい行為だ。 髪を整え、服を着替え、ジャンは階下の食堂に向かって足を運ぶ。 その足取りは、いつもとは異なりどこか重たい。 昨晩のことがあるだけに、面と向かってリディと話ができるのかどうか不安だった。 階段を下り、食堂の戸を開けると、そこにはリディの姿があった。 どうやら一人で朝食の準備を進めているようで、テーブルの上にはハムとパン、それにチーズや卵などが並べられている。 「あっ、おはよう、ジャン」 「あ、ああ……」 食事を並べながら、リディはジャンにいつもの笑顔を向けてきた。 気まずい空気になるかと思っていただけに、これにはジャンも、いささか拍子抜けしたような顔になった。 相手がこちらを責めるならば、覚悟を決めて謝ることもできただろう。 ところが、リディはジャンを責めるようなことは一切せずに、いつもと何ら変わらない様子で接してくる。 こうなると、次に何を話して良いのか、返って気にしてしまうものである。 「えっと……昨日は、その……」 「昨日? ああ、夜、ジャンの部屋に行った時のことね」 「ああ、そうだよ。 あの時は、冷たいこと言ってごめん……。 なんだか、ちょっと気が立っててさ……」 「そんなこと言ったら、私だって、ジャンの気持ちを考えていなかったもんね。 だから、あれはお互い様。 それ以上は、何も言わないことにしましょう」 自分は何も気にしていない。 そんな口調で、リディはさらりと言ってのけた。 ジャンも、それ以上は追及する気にならず、二人の会話はそこで途切れた。 自分の座った席に朝食が並べられてゆく様を眺めながら、ジャンは再び考える。 リディのことは、今はよい。 それよりも、今日の伯爵邸への往診が、果たして平穏に済むのかどうかが気がかりだ。 昨日、血を求めて迫るルネの姿に恐れをなし、馬車にも乗らず逃げ帰った自分。 そんな自分を、果たしてルネは許してくれるだろうか。 信じていた者に裏切られたという事実が、彼女の心を再び閉ざすことになってはいまいか。 考えれば考えるほど、ジャンの中から食欲が消えていった。 周りでは、既に他の宿泊客も席に着き、それぞれがパンやチーズに手を伸ばしている。 が、そんな光景を目にしても、パンを握るジャンの手が進むことはない。 「どうしたの、ジャン? もしかして……食欲ないとか?」 259 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01 01 05 ID dWxH0GEx 気がつくと、いつの間にかリディがジャンの後ろに回っていた。 他の客の目も気にせずに、こちらを心配そうに見下ろしている。 「いや、大丈夫だよ。 昨日、寝るのが遅かったから、ちょっと寝不足でね。 往診に行く時間まで仮眠をとれば、すぐに気分も良くなるさ」 寝不足なのは事実だったが、食欲不振の原因は他にある。 だが、それをリディに語ることはせず、ジャンは適当に理由をつけてごまかした。 食べかけのパンを牛乳で流し込み、手早く皿を重ねて立ち上がる。 「悪いけど、クロードさんが来たら知らせてくれるかな。 僕は昼まで部屋にいるつもりだから……よろしく頼むよ」 食事の終わった食器をリディに預け、ジャンはさっと立ち上がって部屋を出た。 他の宿泊客もいる手前、重たい空気を食堂に持ち込みたいとは思わなかった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 宿場の前で馬の蹄が止まった音で、ジャンは自分が往診に出かける時間だと知った。 昨日、あのまま逃げ帰ってしまった手前、クロードに顔を合わせるのも気が重い。 しかし、患者を放置したまま約束を破るわけにもいかず、ジャンは仕方なしに宿場の外へと出た。 「お待ちしておりました……」 普段と変わらない無機的な空気を纏い、クロードがジャンに一礼する。 感情を表に出さないのを常としているだけに、向こうが何を思っているのかはわからない。 「ああ……。 それじゃあ、行こうか……」 昨日の一件を、クロードは知らないのだろうか。 ふと、そんな考えが頭をよぎったが、決めつけるには早過ぎると思った。 それに、昨日のことは遅かれ早かれ、ルネの口から他の者に告げられるだろう。 自分の不実はわかっていたが、それを知ったテオドール伯やクロードの顔を思い浮かべると、ジャンはどうしても気分が沈んだ。 丘の上の屋敷向かう途中、クロードは始終黙ったままである。 いつもであれば、そんな冷めた態度も気にならなくはなっていたが、今日は一段と馬車の中の空気が重たく感じられた。 相手が感情を押し殺しているだけに、その奥に怒りや悲しみを抱えているのではないかと思うと辛いものがある。 「着きましたよ、ジャン様……」 程なくして丘の上の屋敷に到着し、ジャンは促されるままに馬車を降りた。 冷たい印象を与えるのはいつものことだと思いつつも、クロードの言葉の一つ一つが気になって仕方がない。 260 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01 01 46 ID dWxH0GEx 「どうぞ、こちらへ……」 馬車を降りてからも、重たい空気は変わらなかった。 顔には出していないものの、クロードの背中から発せられているものだけは、ジャンにも理解できる。 やはり、クロードは昨日の件を知っているのだ。 自分が信頼した相手に裏切られた怒りと悲しみ。 それを、この男――ここではあえて、男と呼ばせてもらうが――もまた、心の奥で感じているのだろう。 屋敷の中を、ジャンはクロードに言われるがままにして歩いてゆく。 伯爵のいる部屋とは違う方向だったが、あえて何も言わなかった。 長い廊下を歩き、クロードがその先にある部屋の扉を開ける。 伯爵やルネの部屋ではなかったが、ジャンもその部屋には見覚えがあった。 忘れもしない、クロードがジャンに伯爵とルネの関係を語った部屋だ。 己の身体の秘密を明かしてまで伯爵とルネに対する忠義心の深さを語り、ジャンにルネの話し相手になるよう頼んだ場所である。 「どうぞお掛け下さい、ジャン様」 部屋に入るなり、クロードはジャンに椅子に座るよう促した。 立ち話もなんだということなのだろうが、クロードは椅子に腰を下ろすことなく立ちつくしたままだった。 「この部屋でお話をするのは二度目になりますね」 「あ、ああ……」 「何を緊張なさっているのですか? 別に、私はまだ何も言っていませんよ?」 氷のように冷たい視線が、ジャンの顔に向けられた。 その青い目で見据えられると、心臓を貫かれるような気がして落ち着かない。 「では、単刀直入に申し上げさせていただきましょう」 座ったまま固まっているジャンを気遣うこともなく、クロードは唐突に話を始めた。 「昨日、ジャン様は、お嬢様の部屋に戻られましたね? そこで、何を見たのですか……?」 「な、何って……それは……」 「正直にお答えください。 返答次第では、私の手でジャン様に、しかるべき措置を取らせていただかねばなりませんので……」 「し、しかるべき措置って……。 それ、本気かい?」 思わず耳を疑ったジャンだったが、クロードは至って冷静だった。 普段の彼の様子からして、冗談を言うような人間でないことはジャンも知っている。 ならば、ここで下手に嘘をつけば、それこそ自分の身が危ない。 伯爵やルネに対する忠義心の塊のようなクロードのことだ。 場合によってはジャンを抹殺することでさえ、何の躊躇いもなく行うだろう。 261 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01 02 12 ID dWxH0GEx 「わかったよ……正直に話す」 もう、隠すのは無理だとジャンは悟った。 クロードは事実を全て知った上で、こちらを試しにかかっている。 ここで隠し事をするような素振りを見せれば、それはジャン自身の業を重たくするだけである。 「昨日、ルネの部屋に忘れ物の時計を取りに行った時、彼女が僕に言ったんだ。 喉が渇いた、癒して欲しい……そして、僕の血が欲しいってね……」 「なるほど。 やはり、そうでしたか……」 クロードの目が、一瞬だけ憂いを帯びた色になった。 知られてはいけないことを知られてしまった。 そんな時に見せる顔だった。 「あの時は、正直、僕も気が動転していたんだと思う……。 ただ、ルネのことが恐ろしく思えて、無我夢中で逃げだしたよ。 それが……彼女を傷つけることだと知っていても……自分が抑えきれなかった」 ジャンも、俯きながらそう言った。 ルネの行動に疑問こそ残ったが、自分が彼女を傷つけたであろうことは、紛れもない事実である。 「あの……クロードさん」 「なんでしょうか、ジャン様」 「ルネは……彼女は、どうして僕の血なんか欲しがったんだ? あの時の彼女の瞳は、まるでいつもと様子が違っていた。 あなたは何か、僕にまだ隠していることがあるんじゃないですか?」 遠慮がちに、それでも何とか勇気を振り絞って、ジャンはクロードに尋ねた。 ルネに謝りたい。 それは、紛うことなきジャンの本心である。 だが、同時に、ルネについての真実を教えて欲しいという気持ちもあった。 あんなものを見せられては、これから先も今まで通りに向き合える自信がない。 例え謝罪を済ませたとしても、どこか納得のいかないまま、今まで以上にぎくしゃくした関係が続くことになるだろう。 「ジャン様……。 あなたがそう望まれるのであれば、私からも真実をお話しましょう」 クロードが、その表情をいつものそれに戻しながらジャンに言った。 262 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01 02 55 ID dWxH0GEx 「ただし、それには条件があります。 一つ目は、心の底から昨晩の非礼をお嬢様に詫びること。 二つ目は、今から話すことは、全てジャン様の心の中に留めておかれること。 これらをお守りいただけるのであれば、お話しいたしましょう」 「わかった……。 ルネにはきちんと謝るし、ここで聞いたことは誰にも言わない。 それで良いんだろう……?」 「賢明なご判断です……」 クロードが、ジャンの言葉に納得したようにして言った。 ジャンもそれに、無言で頷いて返す。 今から語られることは、きっと自分の想像を越えた話だろう。 それこそ、クロードの身体のことなど比べ物にならないほどの内容に違いない。 先入観は禁物であると知りながらも、ジャンの手には自然と力が入っていた。 「では、語らせていただきましょう。 お嬢様と私しか知らない……呪われた血の宿命のお話を……」 それからクロードは、ジャンの前でルネの身体の秘密について話し出した。 顔は普段のままだったが、その口調だけは、先ほどの憂いを帯びたようなそれに戻っている。 ジャンがまず驚いたのは、クロードの口から語られたルネの年齢だった。 見たところ、彼女は十四歳か十五歳程度だろうと思っていたが、クロードの話によるとルネは十八歳とのことだった。 彼女がテオドール伯の養女になるきっかけとなった落石事故。 それから生還して以来、ルネは身体の成長が止まってしまったらしい。 見た目は少女の姿のままに、既に四年も生きている。 伯爵の養女になってから、彼女はまったく成長する兆しを見せなかったというのだから驚きだ。 奇妙なことは、そればかりではない。 その体質故に、ルネは確かに日光に弱かった。 しかし、事故の前と後では、その耐性に大きな差が生まれたという。 ルネの口から語られた話によると、事故から生還して以来、強過ぎる日光に当たると飛火や瘡蓋ができるようになったそうだ。 酷い時には火傷のような傷を負い、慌てて木陰に逃げ込んだこともあるらしい。 飛火や瘡蓋の話はジャンもクロードから聞いていたが、火傷をするという話までは聞いていなかった。 また、その一方で、彼女の体質には他人とは異なる優れた面もあった。 以前、何かの拍子で指を切る怪我をしたとき、ルネの血は瞬く間に乾いて傷口を塞いだというのである。 薄い傷跡こそ残ったものの、出血は極めて最小限で済んだ。 再生という程の大袈裟なものではないが、怪我に対する自然治癒力だけは、優れた力を持っているようだった。 そして極めつけは、やはり彼女の嗜好である。 昨晩、ジャンの前で見せた、他人の血を欲するというあれだ。 普段は表に出ることはないものの、ルネは定期的に襲ってくる衝動に苦しめられているとのことだった。 焼けるような喉の渇きに襲われて、ひたすらに生きた人間の血を求める。 酷い時には自分で自分を抑えきれなくなり、そのままクロードに襲いかかったこともあるらしい。 今までは衝動も月に二回程度だったが、ここ最近では、クロードの身体が限界に近くなるほどまでに血を欲してくるようになったとのことだった。 263 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01 03 38 ID dWxH0GEx 「以上が、お嬢様の抱えておられる秘密です。 これで納得いただけましたでしょうか、ジャン様?」 最後まで淡々とした口調で、クロードはジャンに問うた。 その言葉に、やはりジャンは無言のまま頷いて返事をする。 あまりに想像を絶する内容で、言葉を口にすることさえも躊躇われた。 「このことは、御主人様もご存じではないのです。 血を求めるお嬢様に私自身の血を与え続けることで、今までは秘密を漏らすことなく過ごすことができました。 もっとも、いつかこういった日が来るであろうことは、私も予想はしていましたが……」 「そうだったのか……。 でも、どうしてあなたは、このことをテオドール伯に伝えないんですか? あの伯爵なら、ルネの秘密のことだって……」 「ジャン様の仰りたいことは、私にもわかります」 ジャンが言葉を言い終わる前に、クロードがそれを遮った。 「しかし、さすがにこの秘密だけは、御主人様にもお話するわけには参りません。 秘密を知ったことで、御主人様が苦しまれるだけであれば……いっそのこと、何も知らないままの方が良いこともあるのです」 「そんな……。 それじゃあルネは……今までずっと一人で、自分の中に闇を抱えていたってことなのか!?」 「一人ではありません、二人です。 私も、お嬢様の秘密を知る者の一人ですからね。 もっとも、他人と容易に共有できない秘密を抱えているという点では、一人でも二人でも、あまり変わらないことですが……」 その顔からはわからなかったが、ジャンはクロードの言葉から、確かに悲しみのようなものを感じ取っていた。 身内にさえも語れない秘密を抱え、偽りの自分を演じ続けるしかない生活。 純粋な心を持って生まれたが故に、その苦しみはジャンの考える何倍にも大きかったに違いない。 「ジャン様……。 お嬢様は、世間では魔物として忌み嫌われる存在なのです。 永久に歳をとらず、太陽の光を恐れ、その一方で、傷を負ってもすぐに傷口が塞がってしまう。 己の内から湧き上る衝動に身を任せ、他人の生き血を啜ることでしか、その身体を襲う渇きを癒すことができない者。 このような存在を、一度は耳にしたことはありませんか?」 「そ、それは……」 「私も、魔女や悪魔の存在を完全に信じているわけではありません。 しかし、世間一般の者からすれば、お嬢様は間違いなく魔物ということになるのでしょう。 世俗では、そのような者を……こと、吸血鬼と呼ぶようですね」 「馬鹿な!!」 そこまで聞いた時、ジャンは思わず声を上げて立ち上がった。 確かに、クロードの話を聞く限りでは、ルネは吸血鬼と言っていいのかもしれない。 だが、だからと言って、彼女が魔物として忌み嫌われなければならない理由はない。 ルネが他人の血を求める行為。 あの場から逃げ出した自分で言うのも憚られるが、そこに悪意はない。 少なくとも、クロードの話を聞く限りでは、彼女は自分の行いに心を痛めているようだった。 それなのに、世間一般の者から見れば、彼女は間違いなく魔物となる。 その容姿も行動も全てが異質な存在とされ、排斥される運命にあるのだ。 264 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十話】 ◆AJg91T1vXs :2010/12/20(月) 01 04 10 ID dWxH0GEx 自分がルネにしてしまったこと。 ジャンの中でそのことが、今さらながらにして大きく悔やまれた。 ルネは己の衝動を抑えようとし、苦しんでいたというのに、自分はなんということをしてしまったのか。 謝罪の言葉を述べるだけでは済まされない。 そんな自責の念が、ジャンの心を締めつけた。 「話はわかりました、クロードさん……」 高ぶる気持ちを鎮めながら、ジャンは真剣な表情でクロードを見る。 「昨日、ルネから逃げ出したことは……謝っても許されることではありません。 それは、僕も十分に承知しています」 ジャンの言葉に、クロードは何も答えない。 ただ、その話が終わるのを静かに待っているだけだ。 「だけど……だからこそ、僕はルネに贖罪をしなければならないと思うんです。 もう、彼女が自分のことで苦しまなくて済むように……彼女が普通の女の子として暮らせるように……。 そうすることが……医者としてしなければならない、僕の使命だ」 「ジャン様……」 「彼女が吸血鬼だなんて……そんな馬鹿げた話、僕は信じない。 だから、僕は彼女を治す。 例え、その姿が人とは違うもののままでも……せめて、血を求める衝動からだけでも解放してあげたいんだ」 自分でも、言っていることが信じられなかった。 あれほど街から離れたいと思い、それ故に、他人と深く関わることを避けてきた自分。 それにも関わらず、気がつけばルネのため、自らこの土地に残る選択をしている。 だが、不思議と嫌な気はしなかった。 これがルネにとっての救いになるのであれば、そして、自分にとっての贖罪になるのであれば、受け入れてしまおうとさえ思えていた。 自分にとって、ルネはいったい何なのか。 それはジャン自身にも、まだわかってはいない。 ただ、彼女のことを放っておけない自分がいるのは事実であり、医者として彼女の力になりたいと真剣に思っているのもまた本当だった。 原因不明の衝動に駆られ、他人の血を啜ることでしか渇きを癒せない症状。 そんな病気は聞いたこともないし、ジャン自身、治療の当てがあるわけでもない。 それでも、今ここでルネを救うことができるのは、自分以外にいないとジャンは感じていた。 部屋の中に、無言の静寂が訪れる。 ジャンも、クロードも、互いに見つめ合ったまま何も言わなかったが、それぞれの心の内にあった憂いは晴れていた。 もう、後戻りできないところまで来てしまった。 そう思ったジャンではあったが、今はルネのために何かをしたいという気持ちの方が強い。 だが、この時は、その選択が後の悲劇を生むきっかけになろうとは、クロードも、そしてジャン自身も気づいてはいなかった。
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/1748.html
413 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 29 34 ID LvHK/g05 あの電話から一週間程が経ったある日。 あれから何の音沙汰もなく、俺は諦めかけていた。日課になりつつあるリハビリを終えて、俺は自分の病室に戻る。 病室の扉横には402のプレートと、その横には手書きで"白川要"と書いてある。 なんといびつな字かと思うが、同時にこれは俺が書いたんだということも思い出す。 鮎樫さんに名前を教えてもらった後、医者の黒川のとこへ伝えにいった。 しかし「成る程。これは再検査した方が良いかもね。現実と虚構が…」とぶつぶつ独り言を言い始めた。 埒が明かないので不審がられながらもナースステーションから油性ペンを借り、自分で書くことにしたのだ。 「これで大丈夫だな」 何が大丈夫かというと看護婦さんたちや同じ階の爺ちゃん婆ちゃんたちに「402号室の兄ちゃん」と言われなくなるということだ。 中々どうして、人っていうのは名前を呼ばれないと自分自身が保てなくなるらしい。 少なくとも俺は自分が果たして白川要なのかハッキリしなかった。 まあおまじないみたいな物だ。 「あれから一週間か」 取っ手に手を掛けたまま俺は考える。 同じ白川という少女との電話を一方的にぶっちぎってからはや一週間。 俺の周囲に変化はない、というか皆無だ。 耐え切れず何度か電話したが毎回留守という不運。 いや、もしかしたら…もしかしなくても避けられている気がする。 一応毎回律義にメッセージは残したが、聞いてくれているとは思えない。 「振り出し、か…」 あの少女、鮎樫らいむが残してくれた手掛かりは結局役に立たなかった。 …彼女を信用しない方が良かったんだろうか。 「…違うよな」 そうじゃない。 「ただ単に俺のやり方が悪かっただけだよな」 ゆっくりと、でもしっかりと言葉を紡ぐ。そう、これは決して彼女のせいじゃない。 だって現に、同じ白川の姓まで辿り着けたじゃないか。 「やっぱり鮎樫さんのこと、信じていい気がする」 最初から感じていた、初対面なはずなのにそうじゃない雰囲気。 知らない相手なのに信用出来てしまう俺。 ただの友達。鮎樫さんはそう言っていたけど、どうしても俺にはそんな風には思えない。 「…俺、もっと鮎樫さんのこと知りたいな」 俺は色々忘れてしまった。だけどこうして生きている。またやり直せる。まだ終わってない。 だからこそ色んな人達のことを知りたい。もう一度歩き出したい。電話やプレート、そして鮎樫さんとの出会いはその第一歩なんだ。 「何言ってるの?」 「おうっ!?」 急に背後から話し掛けられる。その凛とした声には聞き覚えがあった。 414 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 31 52 ID LvHK/g05 「鮎樫さん…」 「当たり。早く開けてくれる?廊下は寒いわ」 その言葉に自分が取っ手を掴んだまま、ぼけっとしていたことに気がつく。 「わ、悪い…」 ドアは力を入れずとも簡単に開き、視界にはベッドと医療機器しかない殺風景な部屋が広がる。 「プレートの名前、自分で書いたのね。中々お洒落よ」 クスクス笑いながら部屋に入る彼女、鮎樫らいむは確かにそこにいた。 相変わらず髪は長い漆黒のストレート。服装も前回と同じく真紅のワンピース。 殺風景な部屋にいる彼女はとても鮮やかで、そしてそれと同じくらい儚く見えた。 「人の病室に勝手に入るなよ。つーか、いつの間に俺の後ろにいたんだ」 「こう見えても私は伊賀の出身なの。特技は忍法隠れみの術とビーズを使ったアクセサリー作りよ」 「いや、後ろは伊賀関係ねぇだろ」 「メモしておくといい」 「しねぇよ」 一体何なんだ彼女は。 テンションが前回とは全く違う。…こっちは色々と思い悩んでいるっていうのに。 「…さっきの聞いていたのか」 「要が言ってたヤツ?残念ですけど独り言を聞くほど暇じゃないし」 「そっか…」 良かった。聞かれてなかったみたいだ。俺はてっきり 「ただ、私のことは信用して良いわよ」 全部聞かれて…たのかと……? 「それに要が知りたいなら私のこと、もっと教えてあげる」 「って、聞いてたんじゃねぇか!?」 「あら、てっきり私に向かって言ったのかと思って。独り言なんて思いもしなかったわ」 ベットに座り長い黒髪をかきあげながら、彼女は微笑んだ。 「……っ!?」 途端に身体が熱くなる。身体だけじゃなく心も疼く。 「なん…だ…」 「どうかした、要?」 彼女がベットから降りて俺に近づく。 「…っ!!?」 身体がさらに熱くなる。心が疼き火照る。 まるで彼女が俺に近づくにつれ、高まるかのように。耐えられなくなり膝をつく。 「ま…て…!あゆ…か…し…さん!!来ちゃ…」 「大丈夫?汗だくだけど?」 そう言って俺の横に屈む彼女。思わず顔を上げると彼女は微笑んでいて 「言ったでしょ」 「えっ…?」 いや、微笑みにしてはそれは妖艶過ぎて 「私を知りたいって」 彼女の息遣いが聞こえるくらいに距離が狭まって 「だから、教えてあげる」 キスをされた。熱かった。瞬間花火が散った。 比喩じゃない、本当に身体の中で何か熱いものが溢れてる。 彼女の舌が入って来て、俺の舌を捕まえる。俺と彼女の唾液が混ざり合い一つになる。 歯茎を舌で蹂躙されているのに、抵抗出来ない。 それどころか入って来る。伝わってくる。 彼女の、狂おしいほどの愛情が。 憎らしいほどの純粋さが。 そして愛らしいほどの狂気が。 「……っはぁ!」 やっとの思いで彼女を引き離した時には、息も絶え絶えだった。 415 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 32 53 ID LvHK/g05 「……っふぅ。私のこと、少しは分かった?」 相変わらず彼女は妖艶な笑みを浮かべていて、ワンピースと同じ深紅の唇からは透明な糸が俺の唇まで繋がっていた。 「…な、何を…」 「ふふっ、堪らないわね。要のその表情…」 「…っ!?また…!」 彼女に見つめられた瞬間、また身体が火照りだす。 心臓が痛いほど高鳴り、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けない。 「記憶は無くしたって身体は覚えている。心に刻まれている。そう簡単には忘れないわ」 「な…で…いき……りっ!」 もう何も考えてられず、頭が真っ白になる。このままじゃ俺は俺じゃなくなる。 でも動けない。彼女と俺の距離が0になり 「そろそろリハビリの時間ですよ~。今日も黒川先生が…どうしたんですか?」 「い、いや…別に何でもないです」 看護師さんが俺の病室に入った時にはもう彼女はいなくなっていた。そして病室には床で腰を抜かしている俺だけ。 「ここ4階だろっ!?」 そう、鮎樫さんは窓からあっという間に姿を消した、というか飛び降りたのだ。 「大丈夫かっ!……えっ?」 最悪の事態が頭を過ぎる中急いで窓から下を覗くと 「平気よ」 下には彼女、鮎樫らいむが何事も無かったかのように立っていた。 「…な、なんで…ここは…だってここは……」 「ふふっ、そんな要の顔も好きよ」 決して大声ではない、でもここまで届く澄んだ声。 それは彼女の瞳とあまりにも対照的だった。 「じゃあ…また、ね」 そしてそのまま病院を背に向けて歩きだす。 「一体何が…きゃっ!」 気付いたら走りだしていた。下へ下へ。 「ちょっと…!何処に行くんですか!?」 呼び止める声を無視して走り続ける。階段は飛ばし飛ばしで降りていき加速する。 「何が…何がまたね、だ!」 吐き出すように叫ぶ。 「まだ…まだ鮎樫さんには聞きたいことが!」 呼吸が乱れる。足がふらつきこけそうになりながら正面玄関を越えて 「山ほどあるんだ!!」 玄関を抜けた先には誰もいなくなっていて、代わりに蝉の声が初夏を伝えていた。 「はぁはぁ…くそっ!」 思わずその場に座り込んだ。息は絶え絶えで汗は止まらない。 「はぁはぁ…リハビリより…きつい…」 その呟きに応えは無かった。 416 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 34 01 ID LvHK/g05 「それで結局どうしたんだい」 終業式の帰り、夏真っ盛りの気温の中坂道を下る二人の男子の姿があった。 「それにしてもあっちぃーの!これから夏休みで助かったな」 二人とも半袖の白シャツをパタパタやりながら怠そうに歩く。 「あっちぃーのって…なんだい?流行語か何かかな」 「あっちぃーのはあっちぃーのだ。何か暑い感じがひしひしと伝わってくるだろ?」 「なんだいそれ?相変わらずだね、要は。…話を逸らさないで欲しいな」 一人の男子、明るい金髪で軽いパーマの方が立ち止まりつられてもう一方の黒髪の男子も立ち止まる。 「…逸らすつもりはないけどさ」 「じゃあ聞いて良いんだよね」 「……ああ」 夏の陽射しが照り付けても二人は全く動こうとはしない。 ただお互いに向き合っている。 「要…君、断ったのかい?」 「……何をだよ」 「とぼけないで欲しいな。決まってるだろ?」 「……ああ、断っ」 言い終わるより速く、鈍い音が青空に響いた。 「…っ、いてぇ」 殴られた黒髪の男子、白川要は自分の右頬を押さえながら呻く。 「痛い…?よくそんなことが言えたね。君、自分が何をしたか分かってるはずだよ?」 もう一方の生徒は冷たい声で要に言い放った。 「分かってるよ!」 「じゃあ何で断ったのかな。彼女の気持ち、分からない訳じゃないだろうに」 要を掴み上げる金髪の少年。 口調は冷静だがその瞳は、静かな怒りをたたえていた。 「分かるさ、痛いほどに!」 「じゃあ何で」 「だからに決まってんだろ!?俺とあいつじゃ無理なんだよ!それくらい英(ハナ)にだって分かるだろ!」 途端にそれまでの煩さが嘘のように静まる世界。まるでこの世界には二人しかいないようだった。 「…やっぱりあの女なんだね」 でも二人が争っているのは他の誰かのせいで 「…それとこれとは話が別だ」 「嘘をつかないでくれないかな。要…あの女が好きなんだよね?」 そしてその誰かさんは間違いなく 「好きじゃない。……そんな言葉じゃ足りないからさ」 俺の大切な人なんだ。 「……また同じ夢」 リハビリが始まって一ヶ月。 あの鮎樫らいむの突然の訪問からも、すでに二週間が過ぎていた。 あれから俺の周りでは相変わらず変化がなく、リハビリの毎日だ。 「相変わらず変な夢だな…」 もう8月後半だからだろうか。外は蒸し暑く、まだ夏真っ盛りといった感じだ。 「ま、気にすることじゃないか。所詮夢だしな」 その割にはやたらとあの金髪パーマが懐かしく思えるのは、果たして気のせいなんだろうか。 418 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 41 23 ID LvHK/g05 その夢は何かの予兆だったのかもしれない。 その日の午後、ちょうどリハビリを終えて俺はロビーにいた。 …白衣を着て。 「黒川さん…まだ吸ってるのか」 リハビリが終わって、帰ろうした俺を黒川さんは呼び止めた。 「あ、少年。ちょっと待ってくれ」 「…少年じゃなくて白川要なんですけど」 相変わらずこの医者は俺のことをちゃんと名前で呼んでくれずにいる。 彼いわく「もしも違ったら困るでしょ。とりあえず確証がない間は少年だから」だそうだ。 「まあまあ、それはさておき君に重大任務を授けよう」 「またタバコ買いに行け、ですか?」 「惜しいね。でも良い線いってるよ。流石パシ…好青年だ」 …今パシリって言いかけたな。この人本当に医者なんだろうか。 「そんなに睨まないで。ね、ほんのジョークだからさ」 「はぁ…」 「とにかく。僕はね、今タバコが吸いたいんだよ」 やっぱりじゃねえか、というツッコミを抑える。 「でも白衣のままだと匂いがついてしまうんだ…困った」 「…つまり俺に白衣を持ってろと。でもそれなら、そこら辺において喫煙室に行けば良いじゃないですか」 違う違うと手を横に振る黒川さん。何が違うんだろうか。 「それだとサボってるのバレるでしょ。だから君がそれを着てロビーに立っていてくれ」 「…………はい?」 「そういうわけだから、よろしく!」 言うやいなや、タバコとライターを掴み全速力で走り去る黒川さん。 そんなに早くタバコ吸いたかったんだ。つーかそれって医者としてどうなんだ…。 「って、そうじゃねぇ!」 この明らかにぶかぶかでサイズの合わない白衣を着てロビーに立ってろって? 「……絶対にバレるだろ。…まあいいけどさ」 バレても俺は関係ないしいいか。それにあの医者には結構お世話になっているし。なにより 「…暇だしな」 俺はサイズの合わない白衣を来てロビーへ向かった。 「それにしても遅すぎだろ…」 ロビーに来て30分。知り合いの看護士さんたちに好奇の目で見られ続けていた。 それに同じく知り合いの患者達には笑われる始末。 「まさか忘れてるなんてことは…」 憎たらしいほどに飄々としている黒川さんの顔が浮かんでは消える。 「……ありえる」 もしそうだったら絶対に許さない。まずあの澄まし顔に思いっきり…。 「…ません、すみません!」 「は、はい!?」 後ろからいきなり声をかけられて、思わず声が裏返った。 419 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 42 09 ID LvHK/g05 「えっと…とある病室の場所を聞きたいんですけど…」 明らかに警戒している感じの女の子の声。裏返ったのがダメだったか。 というか俺は医者じゃない。とりあえず振り返って正直に言おう。 「す、すいません。俺は医者じゃなくて…」 「だってこれって白衣……えっ?」 やはり女の子だった。しかも制服を着ているので学生。 背は低いけどスタイルは良く、出るところはしっかり出ている。 髪は淡い栗色で派手過ぎず彼女の容姿にピッタリだ。…って観察してる場合か。 「あー…実はこの白衣は俺のじゃなくて」 「………」 さっきから彼女は俺の顔に釘付けになっていた。 「…そんなに見られると…えっ!?」 「………っ」 今度は俺が釘付けになる番だった。何故なら彼女は無言で泣いていたから。 「な、なんで!?」 突然のことに慌てる俺に彼女は 「…なっ!?」 抱き着いてきた。しかも顔を埋めるように。そして 「うわぁぁぁぁぁん!!」 本格的に泣き出してしまったのだった。 402号室にはいつも通り"白川要"と書いてあった。 ただ今までのような雑な手書きではなくプレートにしっかりとした印刷文字であった。 何故ならばそれが証明されたからである。 「これで終わりです。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」 黒川さんがそう言いながら席を立った。 片手には今さっきまで手続きしていた書類が入っている茶封筒を持っていた。 「いえ、家族として当然のことをしただけですから。それよりも」 そしてその書類に記入をし黒川と話しているのはさっきの女の子だ。 「ええ、お兄さんの体調はもう大丈夫ですよ。怪我も完治したしリハビリもしっかり終えたし。退院したければ今すぐにでも」 「じゃあお願いします!…その、兄さんのために」 この子は俺が三週間ほど前に電話したあの子らしい。 「分かりました。では下で手続きをしてくるので少しお待ちを」 「よろしくお願いします」 そして…なんと俺の妹らしい。 420 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 43 19 ID LvHK/g05 「…兄さん?」 「は、はい!?」 いつの間にか黒川さんがいなくなり部屋には俺達二人しかいなくなっていた。 「…どうかした?」 「い、いや別に!」 「そう。でも今日中に家に帰れそうで良かったね」 「そ、そうだな…えっと…」 「…潤、白川潤(シラカワジュン)。兄さんと同じ東桜の一年。バスケ部所属。趣味は料理で好きなタイプは…」 「わ、分かった。思い出せなくて悪かったよ」 「まあ…良いけど」 そう。この子…白川潤は俺の妹で俺を迎えに来てくれたのだった。 しかし俺が本当に記憶喪失で潤のことを何も覚えてないと知るや、もの凄い勢いで俺を殴ろうとした。 思わず病院のスタッフ達が止めたけれど。 「さっきは死ぬかと思ったぞ…」 「だからあれは兄さんの記憶を呼び覚まそうとして、刺激を与えようとしただけだって」 「嘘つけ!あれは確実に殺る気だっただろうが!」 「…だって私のこと忘れてるんだもん」 「だからそれはもう謝っただろ?」 「傷ついた!」 「わ、悪かったよ…」 さっきからこのやり取りの繰り返し。いい加減謝ったんだから許して欲しい。それに 「あ、あの潤…さん」 「潤っ!」 「…えっと、潤?」 「何で疑問形なのよ」 「いや、何か慣れなくてさ」 「慣れろ!…それで?」 「それで…何でこんなに俺達くっついてるのかなって」 部屋は個室にしては結構広い。 それなのに潤は俺の真横にピッタリといて、おまけに腕を絡めている。 「そう?そんなにくっついてないって」 「いやいや、十分だ!だって当たってるし…」 「当たってる?一体何が当たってるの、兄さん」 ニヤニヤしながら聞いてくる潤。そりゃスタイル良いんだから決まってるだろ。 …つーか、やっぱりわざとか。小悪魔的妹め。 「いや…そりゃ恥ずかしいだろうが」 「ふふ、可愛い兄さん」 「あんまりからかうなよな…」 「別にからかってないよ」 そう言いながら彼女は俺をじっと見つめた。 「…ど、どういう意味だよ」 「だって…私たち、付き合ってる訳だしこれくらい普通でしょ」 「まあ確かに付き合ってるんだったら……は?」 「だからそんなに恥ずかしがること」 「ち、ちょっと待て!?」 「何?」 意味が分からない。冗談だよな? 俺とこの子が付き合っているなんて。だって俺達兄妹だよな。 …そうだ、冗談に決まっているじゃないか。 421 :リバース ◆Uw02HM2doE [sage] :2010/07/24(土) 01 44 59 ID LvHK/g05 「な、成る程な。そんな冗談に騙されるほど俺は」 「冗談じゃない!」 「だって俺達兄妹じゃ…」 「兄さんは!…兄さんはそれでも良いって言ってくれたから」 …何を言っちゃっているんですか、過去の俺。 「…それ本当か?」 「うん…。私、凄く嬉しかったよ。兄さんも私と同じ気持ちなんだって」 「…そっか」 「だから…だから私のこと覚えてないって言われた時、どうしたらいいか分からなくなって、凄く悲しくて…」 「もう、いいから」 俺は彼女をそっと抱きしめた。何故か身体が自然とそうしていた。 「あっ……」 「本当に悪かったな。…妹を泣かせるなんて兄貴失格だ」 「…妹じゃなくて彼女」 「俺さ、過去の俺が潤とどんな関係でどんな思い出を作ってきたのか、まだ思い出せないんだ」 「……やっぱり」 「殴ろうとするな!…でもな、それでおしまいって訳じゃないだろ」 「……」 「これから、また思い出作っていこう。勿論過去のことは思い出せるように努力するからさ」 「…分かった」 「…よし、じゃあ帰るとするか」 「…うん」 そうだ。忘れただけで無くした訳じゃないんだ。だったら大丈夫。また始めればいいだけなんだから。 「……これであの女も」 「ん?何か言ったか?」 「ううん、さあ早く下に行こう兄さん」 また始めれば…いいんだよな? 病院から自宅までは県を跨がなくては行けないこと。 そして俺がまだ退院したてということもあってタクシーを使うことになった。 「まさか違う県だったなんてな…」 それじゃあ県内の失踪届けを探しても見つからない訳だ。 「何かあったら電話しろ…か」 一通りの挨拶を済ませ、タクシーに乗る時に黒川さんがくれた連絡先を見つめる。 「別に何も起こらない…よな、潤」 潤は俺の手を握ったまま寝ていた。 やはり今日の疲れが溜まっていたのだろう。 「潤には感謝しないとな」 彼女が来てくれなかったら俺は一生病院暮らしだったかもしれない。 「あと…鮎樫さんにも」 鮎樫さんが電話番号を教えてくれなければ俺は潤に会えなかった訳だし。 「…今どこにいるんだろ」 もう一度あってお礼が言いたい。あの電話の… 「…電話?」 不意に何かが引っ掛かった。あの夜電話で確かに感じた何かを俺は忘れている気がする。 「…考え過ぎかな」 今日は色々あってくたくただ。とりあえず寝てしまおう。きっとこの違和感も時間が解決してくれる。 …潤の手は堅く握られ、俺の手を離そうとはしなかった。
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/1272.html
385 名前:朝はあんなに晴れてたのに[sage] 投稿日:2009/06/15(月) 22 12 10 ID fhZ6/2LV 朝はあんなに晴れてたのに 自転車を立ち漕ぎにして帰宅を急ぐ 路面に跳ね返る大粒の雨 すでに学生服は雨の重さを纏って肌に張り付いていた 緩い下り坂 右曲がりのカーブ よし、もう少し とにかくシャワー浴びて紅茶でも飲もう 帰宅後のプランを頭に描く あ、やべ ブレーキ遅れた 自転車が傾きズザザザ…とアスファルトをこすり、加速がついた体が濡れた路面を走る そして目の前にガードレールがスローモーションのように迫って… あ、良かった、気がついたんですね お約束通り病院のベッドで目を覚ますしたのはどうやら次の日の朝だった 枕の横の看護婦さん(今は看護士さんて言うんだっけ)が柔らかい笑顔を僕に向けている そうか、自転車でスピードを出しすぎて… 数秒の混乱の後、ようやく状況を思い出す 386 名前:朝はあんなに晴れてたのに[sage] 投稿日:2009/06/15(月) 22 13 16 ID fhZ6/2LV あの、ここはどこの病院… ズキン! 聞こうとした瞬間、頭に激しい痛みが走る まだ無理はしないで下さいね 少しずつゆっくり説明します さっきの看護士さんが優しく諭すように遮った 年は25位かな 人目を引く美人ではないけど、薄いアイラインが入った切れ長の目とすらりと通った鼻筋に独特の色気がある 胸のポケットに彼女の名前「松宮」という刺繍がある とにかく今はゆっくり休んで下さい 松宮さんは何か手元の書類にサラサラと書き込むとそう言って部屋を後にした 扉を閉める時、もう一度こちらを覗きこんで 何も心配しないで下さいね と微笑んだ …やれやれ 僕は未だにぼんやりした頭で考える ここはどこの病院だろうな 個室の窓から外を見るが景色に見覚えはない 家の近所の病院をいくつか思い出すが心当たりもない まあいいや… 考えるのも億劫になり僕は再び目を閉じた じきに退院して、またいつもの日常に戻る この時はまだそう信じていた
https://w.atwiki.jp/i_am_a_yandere/pages/2575.html
233 :一度だけ 3話 ◆sin1r3oXGY:2012/11/25(日) 08 31 51 ID RSTZxU7k 何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのだろうかそれは分からないが、確かにそれは彼の為にしてあげる事だとは分かっていた。ただ、彼にとってそれは理解し難いのかもしれない、事実、目の前の彼は困惑して状況を掴めないでいた。 でも、そんなことを一切掻き消してくれる言葉をあたしは知っている。 「一度だけ……」 中学2年生の夏、秋山 葉子はイジメを苦に自殺した。直人にとって初恋の人であったが無惨にも夢と散り、悲しく苦しい気持ちに満たされていく中、彼女は直人を呼び出し告白した。ロマンスとは掛け離れたその場違いな告白を勿論、跳ね退け彼女を罵倒した、どうして、何故、人の尊厳は、分からない……。思いつく限りの言葉を吐いた後、彼女の口から出た言葉は酷く重く、酷く冷たく、極めて現実だった。 葉子の死をきっかけにこのクラスでイジメは無くなった、いや、元の鞘に収まったというべきか。まるで何事も無かったかのように接し始めるクラスメートに浮足立ち、ついには僕は孤独となっていった、。 234 :一度だけ 3話 ◆sin1r3oXGY:2012/11/25(日) 08 33 18 ID RSTZxU7k 気がつくと百草は腹部から血を垂れ流し、悶えながらも彼女を睨みつけ目的を果たそうとジリジリと這い寄ってくる。 あたしの左手は赤に染まり、握られたナイフに至っては赤黒く、どこか艶美で魅入ってしまっていて……。 「何の用?………。」 彼の声はこの静まりきった中を優雅に通り過ぎると即座に百草の顔は喜びに溢れ、それくらいこの場所はホントに静かだった。 ポトリと落ちた携帯電話を拾い、アドレス帳から直人の文字を探し電話をかけた。一瞬だが待受には直人が居て、腸が煮え繰り返り彼女を見下した。しかし、妖艶なナイフと彼の声とで引き戻される。 「ナオ……あたし。」 彼女の声に驚き、素っ頓狂な声をあげ「花さん!?」と驚くとも困惑とも言える声を出すすや否や、今度は「どうして?」と疑問に満ちていた。 「百草が怪我して倒れてるの。助けてあげて。」 有無を言わす暇も与えず、場所を告げ通話を切るとまたもや彼の顔が現れだす。この女の口が直人に触れたと思うと憎しみがこぼれ、この女の味を知らされたと思うと悲しみが溢れた。 235 :一度だけ 3話 ◆sin1r3oXGY:2012/11/25(日) 08 33 49 ID RSTZxU7k 彼女になればあたしを好きになってくれるかも、そんな淡い恋心を胸に抱き、花は髪を伸ばし始めた。丁寧に丁寧に整え、葉子よりも綺麗な髪になり始めるや今度は仕草や言葉遣いを真似するようになり、より完璧にオリジナルを超える為に己に磨きをかけ、そうしてオリジナルを始末する計画を練った。 残酷だったかもしれないがあたしはお手頃なイジメを選んだ、しかしその頃のあたしは罪悪感など無く、早く居なくなれと日に日に想いは強まるばかりで、比例してイジメも過激になっていき……。 遂に彼女は自殺した。 百草は彼女に経過を常に報告していた、今日はあれをした、こんなことをした、どんなに些細な事だろうと、勝ち誇った顔で、喜びであふれ、優越感に浸り、花を煽る。 百草は気付いていたのではないだろうか、少なからず花は彼に好意を抱いていると、そんな不安に苛まれた結果としてこうした惚気話をすることに至ったのだろう。 とうとう彼女は約束を破り、花にビデオを見せてしまった。 「どう花ちゃん?羨ましいでしょ?」 耳元で百草は何か喋っていたがあたしには届かない、好きな人が他人と寝てる姿なんて見たくもないし考えたくもない、直人が彼女の事を好いてる風に見えなかったから邪魔をしなかった、別れることが目に見えたからだ。 でも、この女は違う。 こいつは自分さえ良ければそれで良いんだ、直人の気持ちを汲まず自己の理想の為にあれやこれやと理由を付けては彼との関係を引き延ばそうとする卑しい女だ。 ナオが可哀相。 236 :一度だけ 3話 ◆sin1r3oXGY:2012/11/25(日) 08 34 22 ID RSTZxU7k ここは本当に静かな所ね、こんな騒動があったにも関わらず人一人通らず、まるでここだけ別の世界みたいで何をしても許されそうな気がして、百草の背中にまわり両手を固定して彼女の耳元で囁いてあげた。 「あなたの言葉……頂戴?」 ナイフを首筋にあてがい、一度だけ…一度だけねと呟きだすと彼女は今までの威勢は消え去り死にたくないと願い出すが、それでも直人とあれをしてない、これをしてないなどと言い出すものだから。 「花さん!?」 やはり場所が場所なだけに直人は5分と経たず公園に着いた。彼を見るなり百草はそれまでの絶望を忘れ、希望が生まれ笑みがこぼれた。 彼の名を呼ぶ刹那、彼女の首に一筋を描く。もう、この女からあの名前は呼ばせない、見せない、触らせない、聞かせない、彼の為に何もさせない。 一瞬だけ血が吹き出した後は鼓動に沿って溢れ出し、その中でヒューヒューと空気が漏れる音が聞こえる。 横目でチラリと彼女を見るとその顔は未だ笑みでいて、あたしの殺意をより膨らませる。 237 :一度だけ 3話 ◆sin1r3oXGY:2012/11/25(日) 08 34 55 ID RSTZxU7k 「百草さん!花さん……どうして?」 どうして? 何でそういうことを聞くのだろうか。全部……全部ナオのためにしてるのにどうして?そう聞きたいのはあたしの方だ。 葉子だって百草だって所詮はナオの外面しか見えていない、あたしだけが外面も中身も見えて愛しているのに……。 徐々に動かなくなる彼女を放り、彼の元へと向かおうとすると悲鳴を上げ逃げていった。 彼を追わず再び百草の元に向かいとどめを刺す、多少体中に血は浴びたがどうでも良かった。彼女はナイフで自分の髪を切り、百草の言葉を受け継いだ。 大丈夫、ナオは素直じゃないから、今は驚いてるけど最後は必ず受け入れてくれる。 238 :一度だけ 3話 ◆sin1r3oXGY:2012/11/25(日) 08 35 29 ID RSTZxU7k 「ごめんね。」 彼女は謝った、百草とも葉子とも言える様な優しい口調で、己のした事を悔やんでいるのか、僕に迷惑をかけたと思っているのか、所々血に染まった顔には涙がポロポロと滴り落ちる。 「でも、一度だけで良いから愛されたかったの。一度だけでも。」 彼に抱き着き弁解するようにブツブツと「一度だけ」と繰り返す姿は正に百草そのものだった。 どうして百草のことばかり思い出すのだろうか直人は考えた、もしかしたら僕はいつの間にか彼女を好きになっていたのかもしれない。 「ゴメン。」 彼は謝った、誰に対してそう言ったのか葉子や百草の面影か、それとも花に言ったのかな。 分からないけど、それでも嬉しい気がする、ようやく花を見てくれた気がして、想ってくれる気がして。 その好意に甘えたくて、やっと手の届く所まで来たのが嬉しくて。 「ねぇ、一度だけで良いから好きだと言って。一度だけ……一度だけで良いから。」 最上 花に好きという意思を嘘でも良いから言ってほしい、それさえあれば何も要らない。 「うん。ゴメンね。」 ナオ君は頷きまた謝る、何をそんなに謝ることがあるのだろうか不思議だが今のこの一時を愉しもう。 魔法が全て溶け落ちる前に彼に口づけした。 今もサイレンは鳴り止まない。 だから、少し休むとしよう、そうすればまた私は自分を取り戻せるような気がして、警告音も消える気がして……… あたしだけが彼を素直にさせる言葉を知っている、それは酷く甘美で誘惑で、決意に満ちてはいるものの脆く崩れやすい。 「ねぇ、一度だけ」